う酒にもくたぶれてる南さんのところへいって、帰りを促した。
 南さんは立上った。かなりよろけていた。そして真直に階段口のところまで行ったが、そこで立止って、ちょっと考えて、静かに室の中を見廻そうとした。その顔が少し向き返った時、横手のボックスで……「湧くは胸の血潮よ、たたえよ我が春を、」というところで歌声がやんで、ぱっと、グラスが飛んできた。瞬間に、おれが飛び上って叩き落さなかったら、南さんの頬っぺたを傷つけたかも知れない。グラスは下に落ちて砕けた。その音は小さかったが、なにかしら、異様な気配が室の中に流れた。と同時に、頓狂な笑い声がして、登美子がとんできた。酔ってふらふらしていた。それをふみしめて、眼を異様に光らしている。
「さようなら。握手しましょう。」
 南さんは云われるままに握手をして、そして平然と階段をおりていった。登美子の姿はもう見えなかった。南さんはふらりと外に出た。

     四

 南さんが家に帰りついた時は、十二時をだいぶ過ぎていた。
 彼は門柱によろけかかって、後ろ手でやたらにベルの釦を押した。暫くたって、静かに門扉が開かれた。出て来たのは、女中ではなくて、山根さんだった。南さんはびっくりしてつっ立った。
「ただ今……。すみません。」
 丁寧にお辞儀をしたひょうしに、よろよろっとして、そのままの調子で家の中にはいっていった。そして茶の間で外套をぬぎすてると、洋服の膝を折ってきちんと坐ったが、上半身はふらふらしていた。彼は眼をつぶった。
 山根さんは戸締りをして戻ってきた。――おれは眼を見張った。山根さんはふだん着ではなく、大島の着物羽織をき、万年青《おもと》構図の緑がかった落着いた帯をしめ、髪もきれいにとかしていた。おれは不思議に思って、家の中をかけ廻って、彼女の履物をしらべ、風呂敷をしらべ、荷物をしらべたが、外出したらしい様子はなかった。すると、南さんを待つために彼女が服装をかえたというのは、これは重大問題だ。――彼女は端然といずまいを正して、南さんにお茶をすすめていた。
「なにも、あなたが起きていなくったって……。」と云いながらも、南さんは眼をつぶったままだった。
「女中は朝が早いから時間がくれば寝かさなければなりません。」
 南さんはふらりとお辞儀をした。
「あなただって、一家の主人であるからには、帰らない時には帰らないと、家《うち》に知らせなければいけません。」
「そう、そうです。」彼は呂律がよくまわらなかった。「うちに、電話がないのは、実に不便です。」
「前以て予定がたたないような泊り方は、どうせ、よろしい泊り方ではありません。」
「そうです。まったく、よろしい泊り方では、ない……。」
「もうたくさん……。早くお茶でもあがって、おやすみなさい。」
「おやすみ、なさい。」
 ふらりとのめりかかったのを、またもちなおした。
 山根さんは、脱ぎすててある外套をとって、縁側で打振って、次の室に持っていった。そして間もなく戻ってきた。
「何かはいっていますよ。」
 彼女は白い封筒を差出した。
「はいって、います。」
 彼女は封筒をしらべ、封がしてないのを見て、中を開いた。そして読んだ。――登美子の手紙だ。宛名も署名もないものだ。――彼女は少し蒼ざめ、次に赧くなった。
「なんですか、これは……。」
 とんと卓袱台を叩かれたので、南さんは初めて眼を開いた。
「読んでごらんなさい。」
 南さんは紙片をとって読んだ。電気にでも打たれたようにきっとなったが、そのままじっと、室の隅に眼をやって考えこんだ。それから次に、不思議そうに山根さんの姿を眺めた。そして彼があまり黙りこんでるので、山根さんはまた紙片をのぞきこんで、も一度読んだ。
「どんな人が書いたものか、大体分ります。けれど、なんですか、その恋人というのは。」
 案外落着いた調子だった。南さんはその声に耳を傾け、山根さんをまじまじと眺めた。それからまた眼をそらして、考えこんだ。そしてふいに云った。
「恋人か……なるほど、恋人、ですよ。人間でもないし、もちろん、神様でもないし、いや、やっぱり、恋人、です。そいつが、まだ、いないけれど、今に出てきます。奇蹟が、行われる……。」
 山根さんは次第に蒼ざめて、頬の肉がぴくぴく震え、眼が大きくなっていった。
「誰のことですか、それは。」
「誰でも、ありません。」
 低く呟いて、南さんはぐたりと横になってしまった。眼に一杯涙をためていた。それからふいに、卓袱台の上の紙片をひったくって、ずたずたに引裂いた。
「あんな奴に、分るもんか、畜生……、あなたにだって、分るもんか。やっぱり……僕には、恋人がいるんです。女でもない、男でもない、誰でもない……恋人だ。それが、いるんです。」
 南さんの頬には涙が流れていた。山根さんはすっかり蒼ざめて、冷くなって、それでも、爪がつやつや光ってる手にハンカチをとって、南さんの涙を拭いてやった。その涙が後から後から出てきて、しまいに止んだ頃には、なんということだろう、南さんはもううとうと眠りかけていた。その寝顔を、山根さんはじっと見ていたが、大きく溜息をついて、それから南さんをむりやりに起し、二階の寝室につれていった。
 おれはそこに残って頭をかいた。――どうやらおれの童話は失敗らしい。おかしな人たちばかりだ。あんな恋人ってあるものか。それに、山根さんの着換えは更に訳が分らない。然し、まだどうなるか分ったものじゃない。おれには少し腑におちないことが多すぎるんだが……まあいいや。
 おれは正夫の寝てる奥の室に行ってみた。
 正夫はすやすや眠っていた。おれがその額に接吻してやると、少しきつすぎたか、正夫はぱっちり眼を開いた。
「どうして眼をさますんだい。」
「なにか、へんなものが来たんだよ。」
「夢だろう。」
「夢なんか、僕はみないよ。」
「なぜだい。」
「知らないや。よく眠るからだろう。」
「夢をみたかないかい。」
「みたかないよ。」
「なぜ。」
「みたってつまんないよ。眼をさますと、すぐに消えちゃうよ。」
「眼をさましても消えないようなものが、何かあるかい。」
「あるじゃないか。いっぱいあるさ。」
「うん、そりゃああるよ。だけど、パパだって、おばさんだって、たくさん夢をみてるんだろう。」
「そんなこと、僕は知らないや。みてるとしたら、よく眠れないからだろう。」
「そうだなあ、よく眠れないのかも知れないや。そして君は、あまりよく眠りすぎるよ。」
「眠りすぎたって、いいじゃないか。」
「一人で先に眠るのは、淋しかないかい。」
「淋しいもんか。だけど、みんな先に眠って、一人であとから眠るのは、淋しいよ。」
「それじゃあ、死ぬのは。」
「死ぬのはちがうさ。」
「なぜだい。」
「死んじゃったら、もうおしまいだ。眼がさめやしないよ。」
「だってさ、生き返ることだってあるだろう。」
「生き返ったら、ほんとに死んだんじゃないんだ。」
「そんなら、地獄とか、極楽とか、天国とか、よみの国とか、あんなものはどうなるんだい。」
「嘘っぱちさ。」
「それでいいのかい。」
「いいじゃないか。生きてる間だけ生きてりゃいいんだ。ばかだな君は、いつまで生きてたいんだい。」
 こいつは、全くおれの手におえない。だがおれは正夫が好きなんだ。そしても一度その額に接吻してやった。
 そこへ、山根さんが考えこみながらやってきた。南さんを寝かしてきたんだろう。彼女は床にはいったが、いつまでも眼をあいていた。夜通し何か考えこむつもりかも知れない。おれはばかばかしくなって、もう寝入ってる正夫のそばに、眠った。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1936(昭和11)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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