南さんの恋人
――「小悪魔の記録」――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)水気《すいき》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を
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     一

 少しいたずら過ぎたかな? だが、まあいいや。
 その朝、室の有様は、おれの気に入った。
 窓に引かれてる白いカーテンを通して、曇り日らしい薄明りが空の中に湛え、テーブルの上のスタンドの電燈が、いやにぼんやりしていた。殆んど何の装飾もない白いだだ広い室……。窓寄りのベットに、南さんが、顔まで毛布をかぶり、長髪を枕の上に乱して、死人のように眠っていた。テーブルのスタンドのわきには、帽子、カラー、ネクタイ、紙入、時計、大きな木札のついた鍵……。中央の円卓には、ビール瓶が二本、一本はからで、一本は栓もぬいてなく、コップ二つ、リキュールのグラスが二つ。それから扉寄りに、も一つベットがあって、寝具は少しも乱されてないが、その上に、南さんの服装が、外套からシャツや腹巻まですっかり、とりちらされていた。腹立ちまぎれに自分で脱ぎすてたものか、或は、急病の手当に誰かが脱がして投げ出したものか、そういった有様で、片隅の衣裳戸棚はまるで忘れられていた。それから、南さんの服装のわきに、ベットの裾の方に、くしゃくしゃなタオルの寝間着が一枚、無雑作に放りだしてあった。それが全体の有様から見て、つまりこの室は、宿泊されたのではなく、寝られたに過ぎないのだ。
 十一時頃、南さんが突然起きあがった。ベットがゆらりと動いた。身体に不馴れなその動揺とシーツの感触とで、南さんは初めて正気に返ったらしく、室の中を見廻した。血のけのうすい膨れた顔をしている。暫くして、彼はのこのこベットからおりてきた。寝間着の前がはだけてるのに気がついて、紐をむすんだ。しきりに頭をかしげながら、室の中を一通り見調べた。それから窓のカーテンをかかげて、外を眺めた。
 果して、曇り日のどんよりとした昼だった。すかし見ると、ばかに高い……。あちこちに、高層建築の頂が聳えていて、その間を垂直にえぐり取った深い深い谷底に、軌道が見える。電車が通る。自動車や自転車……豆粒のような人間……。冷々とした空気が、悪気流が、宙に迷っていた。
 暫く眺めていた南さんは――あぶない、とおれが囁いてやったからばかりではなく――ぞっと身体中震えて、窓から離れた。時計をちょっと覗いてまたベットにもぐりこみ、横向きに、手足を縮こめ、眼を閉じた。頭を深々と枕に埋めてる様子では、眠ったようだったが……思いもよらない時に、両方の眼瞼から涙が一滴ずつ、すうっと流れおちた。雨滴が木の葉をすべるような、少しの無理もない流れ方だった。それからやがて、彼はうとうとと眠ってしまった。
 一時頃、南さんはほんとに起きあがった。こんどは、眉をしかめ、ひどく不機嫌そうな顔付だ。宿酔のせいもあったのだろう。彼は室の中を少し歩き廻り、冷い水で顔をごしごし洗い、面倒くさそうに洋服に着かえ、窓のカーテンをひきあけ、円卓に片肱をつき、ビールをのみまた煙草をふかしながら、窓からぼんやり空間を眺めた。
 そこで、おれはその耳に口をよせて、ひそひそ囁いてやった。――「どうです、昨夜のこと、覚えていますか。よく分らないのも、無理はありません、随分酔ってましたからね。彼女が帰っていったのが分らないなんて、そこまでいけば、確かなものですよ。これでもう、満足でしょう。どうです、わたしが云った通りじゃありませんか、徹底的にやっつけちゃいなさいって……。気持がさっぱりしたでしょう。なあに、頭が重かったり、多少の憂鬱があったりするのは、二日酔のせいですよ。それに、今日はあの通り曇ってもいますからね。今に、雲が切れて……まあ夕方ですね、赤い夕陽がぱっとさして、そして千疋屋で林檎でもかじってごらんなさい、頭の中も、胸の中も、さっぱりと晴れてしまいますよ。そして一切のきりがついて、ふんぎりがついてそれこそ、何物にも囚われない自由の境地ですよ。朗かな自由……そんなことを考えてたんでしょう。そうです、朗かですとも。朗かでなくっちゃ自由でないし、自由でなくっちゃ朗かでない……そうです、そうです。山根さんのことも、登美子のことも、家庭の煩いも、そのほかすっかり消し飛んじゃいますよ。これでもう、思い残すことはないでしょう。とにかく、未練というやつが一番の禁物です。これが最後だ、これがどん底だ、と思ってるところに、も一つ次の最後やどん底が出てくるのは、未練がさせる仕業ですよ。未練を捨てちゃいなさい。そうすれば何も恐れるものはありません。も一度登美子に逢ったって、そりゃあ構いませんとも。もう未練がないんですからね。こっちは朗かで自由だ、先様は先様だ、それだけのことです。思い通りのところに出たでしょう。だから、決心次第だと云ったじゃありませんか。これからだって……。」
 その時、おれは舌をぺろりと出して、更に大事なことを囁こうとしたが、あいにく、扉を叩く者があった。なおも一度叩いて、紫の上っ張をきた女がはいって来た。小さなお盆の上に、小銭を少しと、勘定の受取書とを持っていた。南様と名前まで書いてあった。南さんは腑におちない眼付でそれを眺めた。
「昨晩のおつりでございます。」
 女が出ていってからも、南さんは小首を傾げながらお盆を見ていた。それから残りのビールを飲んでしまって、立上った。
 廊下の突当りにエレベーターがあったが、南さんはわざわざ階段をおりていった。初めてのホテルらしい。じろじろあたりを眺めながら、七階から一階までおりてゆき、少々てれた顔をして、帳場の男に、私は南だがもう帰ります、といやに丁寧な口を利いて、手ぶらの身体をひょいと表にとび出した。
 表に[#「 表に」は底本では「表に」]出て彼は、そのホテルの高い建築を仰ぎ眺め、それから外套の襟に※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を埋め、没表情な顔付で、銀座の方に歩きだした。足がふらふらしてるのも気につかないらしく、憂鬱に考えこんでしまっているのだ。
 そんなのは、おれは嫌いだ。
「さて、どうします。」
 何の反応もなく、ぼんやり歩いているだけだった。
 少しけしかけてやろうかと思ったが……いやおれにはもっと面白いことが残っていた。南さんはあとでまたすぐにつかまえることにして、そこの、掘割の橋の上で別れて、おれは駈けだした。

     二

 おれは山根さんの様子を見にいった。
 おれの頭には、南さんと山根さんとの間の先夜の滑稽な場面が浮んでいた。おれはこの二人の童話めいたものを組立てておいたのだが、それがどうやら失敗に終ったらしい。どうもおれの腑におちないことが沢山あるようだ。――南さんの細君が死んでから、細君の伯母さんの山根さんが、南さんのところにやってきて、七つになる子供正夫の世話から、家事万端の面倒をみることになった。伯母さんといっても、まだ四十歳の未亡人で、金があって孤独で閑で、ぼんやり日を暮してた人だから、丁度適役だった。南さんが再婚するまで、とそういうつもりらしかった。南さんは三十七歳で、妻の死後ひどく憂鬱に沈んで、酒をのみ廻っていた。そして別にどうというわけがあってのことではなく、どちらからどうしたということもなく、南さんと山根さんとがへんな仲になった。でも山根さんの様子は少しも変らなかった。一人の女中を指図して、家事一切を厳格に仕切り、正夫を愛した。起床や食事や就寝の時間、お惣菜の種類、衣類の始末、洗濯の仕方、家具の配置、正夫の勉強――来年から小学校にあがるというので少しずつ文字を習わせていたのだ――交際の範囲及び程度、凡てのことが規矩整然と行われた。それから南さんの性慾の問題も適宜に。その上、山根さんは相当な財産をもっていて、ゆくゆくはそれを正夫に譲るという口吻をもらしていた。既に私財で南さんの家計を補うことも度々だった。そういうわけで、南さんは妻の死後、理想的な境遇に在る筈だった。毎日ある私立大学に勤めていて、専門の研究も大に進捗する筈だった。ところが、事実は逆で、南さんは次第に自暴自棄なところまで出てきて、酒をのむことが頻繁になり、道楽も度重ってきた。そして先夜のことなんか、どうも、おれには苦笑ものだ。尤も、おれがちょっとおせっかいをだしはしたが……。
 夜おそく、二階の書斎で、南さんと山根さんとが話をしていた。正夫も女中ももう寝入っている夜更けで、あたりはしいんとしている。南さんはふだんのなりだったが、山根さんは、寝間着の上に着物をひっかけ、細帯一つの姿だった。一度寝てからまた起き上ってきたものらしい。そして二人は、話をしていた……のではあるが、南さんは山根さんの膝に身を投げかけ、その胸に顔を埋めて、しくしく泣いているのだ。丁度、母親の胸にすがりついてる大きな子供みたいだった。大体、南さんは背が低くて痩せているし、山根さんは女として背の高い方で、肉体がおっとりと肥満し、脂っけの少い滑らかな皮膚をしていて、長く立っているか腰掛けているかしたら足に水気《すいき》がきて脹れそうな、そういう締りのたりないところがあり、そのくせ頬の肉附にちょっと険《けん》があり、その代り眉に柔かな円みがあって眼が細かった。だから二人が抱きあってるとしても、親子みたいで、少しも猥らな感じはなかった。
 これはいい、とおれは思って微笑した。
 だが、南さんは泣いてるんだ。
「……駄目なんです、僕はほんとに駄目なんです。中心の心棒みたいなものが、精神か感情かの心棒みたいなものが、なくなってるんです。そして身の持ち方の、しめくくりというか、垣根というか、そうしたものがなくなって、埓をふみ越してしまうんです。一本か二本だけ飲もうと、そう思っていると、つい酔うまで飲んでしまって、そしてあちこち飲み歩いて、とんでもないことをしでかすんです。うちあけて云います。僕は家を空けたことはありませんが、売笑婦を買うこともあれば、みずてん芸者を買うこともあります。許して下さい。どうにも仕様がないんです。然し、信じて下さい、これだけは信じて下さい、愛してる女なんか一人もないんです。」
 山根さんは、眉をしかめもしなければ、微笑みもしないで、南さんを抱きかかえたまま、考え深そうな眼を伏せていた。そしてほっと溜息をついた。
「では、いったい、あなたには何が必要なんでしょうね。」
「それです、それです、何が心要なのか、自分でも分らないんです。ねえ、山根さん……どうしたら……。」
 彼は駄々っ児のように山根さんをゆすったので、山根さんは倒れかけようとして、それをもちこたえた拍子に、異様な笑みをちらと浮べた。
「必要なのは、奥さんでしょうか。」
「いえ、ちがう、ちがいます。」
「では……恋愛でしょうか。」
「ちがいます……。」
「それでは……。」
 山根さんの眼が、大きくなって、慈愛……めいた色を浮べて、じっと空《くう》を見つめた。
「一口に云えば、心とでも云うようなものでしょうか。」
 いけないなあ、とおれは思った。そして南さんの返事のないのに乗じて、おれはちょっと山根さんに……囁いてやった。山根さんの顔には苦悩の色が現われた。そして云った。
「だけど、空想に走ってはいけませんよ。しっかりしなければいけませんよ。あなたにはそれが出来ます。空《くう》なものよりも、実《み》のあるものを掴まなければいけません。それまでには、いろんな幻滅を経なければなりません。あなたは、それに堪えることが出来る筈ですよ。あなたがすっかり打明けて下すったから、わたしもすっかり打明けてお話しましょう。わたしは……あなたを愛してるかどうか、自分でも疑っていますの。いえ、愛してはおりません。」
 南さんは顔をあげて、山根さんの眼をのぞきこんだ。が山根さんは、顔色も眼色も動かさず、蝋のようだった。その声も無感情なものだった。
「あなたとわた
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