しと、こういう風になったからって、それは、お互に愛し合ってる証拠にはならないでしょう。あの時、初めての時から、今までずっと、わたしたちは、愛するとか愛しないとか、そんなことは一言も口にした覚えはないじゃありませんか。ですから、あなたに愛する人が出来たり、再婚して奥さんを貰ったりなさる時には、わたしはさっぱりと出ていきますよ。そしてそれまで、こうしていたって、ちっとも差支えありません。あなたは、奥さんがいた時も、たまには、そして今でも、汚い女に接することがあると、告白をなすったでしょう。そんなのは……後味がわるいにきまっています。けれどわたしたちは、後味のわるいような思いをしたことがあるでしょうか。男と女と……満足させあうのはごく自然なことです。御飯をたべなければ、お腹《なか》がすきますし、お腹がすいたからって、芥溜《ごみため》をあさるようなことはしちゃあいけません。わたしたちの仲、濁ってるとお思いになりますか。いいえ、濁ってなんかいません。きれいに澄んでいますよ。お互いに……空腹でもなく、そしてきれいに澄んでいて、そして、愛するとか愛しないとか、そんな面倒なこともなく、落着いて仕事ができて、ごく自然な理想的なことじゃありませんか。それを、悩んだり、濁らしたりするのは、あなたの酒や道楽……それだけです。あなたが酒をひかえ、不潔な快楽をしりぞけなすったら、わたしたちはいつまでも清く澄んでいけます。それに、わたしには、子供の出来る心配もありません。子供の出来ない身体ですよ。気がついていられたかどうか知りませんが、わたしは手術を受けたことがあって、もう子宮がないんです。」
これはすばらしい、とおれが思ってるのとまるで反対に、南さんはひどい衝撃を受けたらしく、山根さんの顔をじっと、まるで自分に憑いてるものをでも見るように、一心に見つめたが、次の瞬間には、がくりと崩れて、山根さんの肩にすがりついて泣きだし、山根さんも彼をかき抱いて、泣きだしてしまった。そして二人は、互にひしと、肉体を溶け合したいかのように、また永久に離れられないかのように、抱きあって泣いた。泣きながら、キスしあったり、身悶えしたり……。
そのばかさ加減には、おれも呆れた。仕末に困ったが、頭を掻くだけにした。
南さんは夢の中でのように云っている。
「僕はもう酒をやめます。不品行なこともしません。ほんとに誓います。」
山根さんも夢の中でのように云っている。
「いいえ、誓ってはいけません。」
「いえ、誓います。」
「いいえ、誓ってはいけません。」
それが互に嬉しそうなんだ。おれはチェッと舌打ちした。その音が聞えたかどうか、二人は何かはっとした気配《けはい》で、あたりを見廻し、それから顔を見合ったが……ざまあみろ……微笑が凍りついていた。尤も、寒い夜だった。
おれの腑におちないというのは、その翌日からの南さんの一層ひどい憂欝だ。山根さんが云ったように、南さんは理想的な状態にあった筈だ。ただ、山根さんには多少不感症めいたところがあったかも知れないが、然しそれは取るに足りないことだし、南さんにしたところで、ホテルの昨夜、殆んど何にも分らなかったほどだし、とにかく、南さんの憂欝は、ちがった種類のものに相違なかった。そして南さんは、なおひどく酒を飲み、ちょっとおれの手伝いもあるにはあったが、昨夜のようなことになったのだ。
山根さんはどんな様子をしてるだろう、それがおれの興味の中心だった。
然るに、女中は洗濯をしており、正夫は縁側にねころんで色鉛筆で画仙紙をぬりたくっており、そして当の山根さんは、茶の間の長火鉢の前に、いつもの通りどっしりと控えて、卓袱台の上にマニキュアのセットをひろげて、爪を磨いてるところだった。
山根さんは家事万端のやり方が至って几帳面であると共に、身だしなみも几帳面だったが、顔に剃刀をあてたことがなく、上唇に産毛みたいなうすい髭がはえてるのと、丹念に手の爪を磨くのとだけは、少し不調和だった。艶出液には無色のものを使っているとはいえ、磨いた爪はやはり磨いた爪にしか見えない。肩が頑丈で、腕が太く、手先は細そりしていて、拇指の爪だけがだだびろく、他の爪は小さく恰好がよく、そしてそれらの爪がいつもぴかぴか光っていた。四五日おきには必ずマニキュアの道具が取出された。まず金剛砂板、それから外皮除去液、艶出液、エナメル……十本の指先をすっかり仕上げてしまうには、一時間か一時間半かかるのだ。今も彼女は、平べったい拇指の爪をバッファーで丹念にこすっていた。ふだんと少しの変りもなく、ただ、寝不足らしい曇りが眼にあるきりで、そして頬の肉附のちょっとした険《けん》に、時折、ヒステリックなものがちらと浮んで、その度にバッファーの手先が急になるだけで、それもまたすぐゆるやかになり、その彼女全体が、十五貫の重みで落着きはらっていた。
マニキュアはまだ始まったばかりで、長くすみそうになく、それはおれの苦手だ。でもおれは隙つぶしに、正夫を庭に誘い出した。おれが自由に対話が出来るのは正夫とだった。
庭の隅よりに、池があった。まだ寒いせいか、緋メダカが底の方にじっとしていた。正夫はそのふちに屈んで、晴れかけてる空の雲が水にうつってるのを、じっと眺めた。それから水中をすかして見て、細い竹の先でメダカをつっついた。メダカはちょろちょろと、よろけるように泳いで、またじっと静まり返る。またつっつく。またちょろちょろと泳ぐ……。
「なぜメダカばかりなんだい。」
「メダカきり入れなかったからだよ。」
「なぜ金魚も入れなかったんだい。」
「メダカを食べちまうからだよ。メダカが一番先にはいってたんだ。」
「ずいぶん大きいのがいるね。」
「うん。大きいのはみんな兄弟で、中くらいのがみんな兄弟で、小ちゃいのがみんな兄弟だよ。」
「ほう、大勢だな。君も大勢兄弟がほしかないかい。」
「メダカみたいに大勢あったら、おかしいや。」
「一人で淋しかないかい。」
「淋しかないよ。……でも、姉さんがあるといいなあ。」
「ママがあった方がいいだろう。」
「ママは死んだんだよ。」
「でも、また次のママが出来たらいいじゃないか。」
「出来てみなけりゃ分らないや。」
「おばさんは……山根さんは……君は好きかい。」
「好きだよ。」
「あの人にママになってもらったらいいじゃないか。」
「だって、ありゃあおばさんだよ。」
「それをママにするさ。」
「ママとはちがうよ。」
「どうちがうんだい。」
「ちがうよ。ママはママ、おばさんはおばさんだ。」
「そして、パパはパパだ。」
「パパはたいへん忙しいって、おばさんが云ってたよ。だから、ゆうべ帰って来られなかったんだって……。」
「なんで忙しいんだい。」
「いろんな御用があるんだって……。そして、豪いんだそうだよ。」
「おばさんとどっちが豪いんだい。」
「パパの方が豪いさ。でも、おばさんはいい人だよ。すこし厳格かな……だけど、とてもやさしいし……いろんなことを知ってるよ。」
「いやなところはないかい。」
「よく分らないけれど……香水をつけると、匂いが強すぎるし、香水をつけていないと、匂いがうすすぎるし……へんだよ。」
「へんて、なにが。」
「ママは、いつも、なんか……やさしい匂いがしてたよ。」
「おっぱいの匂いだろう。」
「ちがうよ。僕はもうお乳なんかのまないよ。」
「パパはどんな匂いがするんだい。」
「パパには、匂いなんかないさ。」
「君には。」
「ないよ、男だもの。」
「すると、男には匂いがなくて、女にはあるのかい。」
「みんなかどうか、知らないよ。」
正夫は不機嫌に黙りこんでしまった。そしてまたメダカをつっつき始めた。
「やっぱり、君は一人ぼっちで淋しいんだね、そして大勢兄弟のあるメダカがうらやましいんだね。」
「ちがうよ、こんな兄弟なら、僕にだって、世界中にあるよ。」
「世界中に兄弟があるのかい。」
「あるさ、兄さんも弟も、姉さんも妹も、世界中にあるよ。」
「そして、パパもママもかい。」
「……ばかだね、君は。」
正夫に叱られて、おれは愉快になった。茶の間の方をのぞくと、山根さんはまだマニキュアをやっている。おれは諦めて[#「諦めて」は底本では「締めて」]、口笛をふきながら立去っていった。
三
その夕方、おれは南さんを千疋屋の二階に見出した。思った通りだ。いや思ってた以上に、南さんは晴れ晴れとしていた。どこでしたのか、髯を剃って、一風呂あびて、靴まできれいに磨かせているし、洋服や帽子の埃もはらってある。ホテルを出ていった時の様子とちがって、これなら、立派な紳士だ。
南さんはコーヒーをのんでいた。暫くすると、立上ったのであるが、出て行きはしないで、奥の食堂の方へ行き、食事をはじめた。コーヒーをのんでから、初めて空腹に気づいたのだろう。なるほどよく見れば、みなりはととのえているが、まだ頭はぼんやりしてるらしい。脹れていた顔付が、こんどは肉がおちて色艶がなく、眼瞼がはれぼったく、視線が重々しく据って、それでいてじっと物を見るのでもない。晴ればれとしてるのは様子だけで、精神はどんよりとしてるらしい。
南さんは食事をすまし、またコーヒーをのんで、そこを出た。そしてゆっくりと、じれったいほどゆっくりと歩いて行く。もうふらついてはいないが、足に力がなさそうだ。そして額には一抹の曇りがある。暫く歩いてから、ビヤホールにはいって、ジョッキーを半分ばかりのんだ。次に顔をしかめて、出ていって、またゆっくり歩きだし、こんどは裏通りの小料理にはいって、日本酒をのみだした。コースが、コーヒーから洋食からビールから日本酒と、まるであべこべだ。恐らく彼の頭も、時間を逆に辿っていたのだろう。おれは彼の真正面に両肱をついて、じっとその顔を眺めてやった。――「どうです、これを最後として、心残りなくやっつけますか……。」
南さんは苦笑を浮べ、眼をちらと光らした。そして紙入を取出して、中を調べた。
南さんは立上った。顔には赤みが浮きだし、瞳が輝いてきて、足どりもしっかりしていた。酒飲みの体力というものは、急に衰えたり燃えたったりして、まるで見当がつかないものだ。
こうなると、おれも辛抱してついてきた甲斐がある。しかも、南さんの行く先が、昨夜のアカシアだ。
おれが予言したように、西の空から明るく晴れかけていたが、もう夕方で、街は昼の明るみと照明とが相殺しあうおぼろな時刻、慌しい人通りだった。
カフェーの中はまだ人いきれがなく、さむざむとしていた。南さんは側目もふらず、まっすぐ二階に上ってゆき、一番隅っこの、芭蕉の葉影のボックスに腰を下した。あわててやってきた顔見識りの女給二人に、ただビールをあつらえ、煙草をふかし、片手で頭を支え、芭蕉の葉をぼんやり眺めた。
「昨晩《ゆうべ》、あれからどうなすったの。ずいぶん酔ってたわよ。」
すり寄ってきて、膝をつつかれたのに、南さんはただ、うん……と云ったきり、溜息をついた。
「それより、実は弱ったことがあるんだ。頼まれた話があって……登美子さんいるかい。呼んでくれない。あとで飲もう。」
二人の女給は意味ありげな目配せをしあって、素頓狂な大きな声で、登美子さあん……と叫びたてた。
これは、おれの気に入った。やはりおれが見込んだだけはある。いやしくも私立にせよ大学教授だ、多少の地位も名誉もあろう、それが、このだらしないカフェーで、多くの知人も出入してるここで、昨夜のことがあっての今日、登美子を呼んで内緒話とは、ちょっと出来すぎてる。だが、またこれでみると、昨夜のホテルの一件なんか、あとでよく分りはしたものの、乱酔のなかのこととて、実感としては何にも残っていなかったのかも知れない。然し、そんなこたあおれの知ったことか。――やって来た登美子は、染分け地に麦の大模様をあしらったモダーン趣味の金紗の着物をき、髪はお粗末な洋髪で、眼の大きな口許のひきしまった丸顔、どこかはすっぱでそして勝気で、仰向き加減に、金属性の声をしぼって映画の主題歌でも歌わ
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