現われてくるんだ。いちばん意外な時、いちばんぼんやりしてる時……まあ云ってみれば、往来を歩いて、曲り角をまがった瞬間だとか、バスから降りて、歩道の上につっ立った間際だとか、酔っぱらって物に躓いて、ふらふらとして、電柱につかまったとたんだとか、さっき君が立っていって、すーっと冷たい風が流れた隙間だとか、そんな時に、はっきり彼女の姿が見えるんだ。どんな顔でどんな身なりだか、そんなことは分らないが、或る光みたいに、音響みたいに、香気みたいに、とにかくはっきり見える。僕は昨年、女房が死んで、その当座、女房のことをよく思いだしたものだが、そういう思い出とはまるでちがう。恋人の姿は、現在生きていて、まざまざと、そこにあるんだ。いつだったか、西に向って、坂を上っていたら、夕方のことで、夕日が真赤にさしてきたので、立上ってそれを眺めていると、坂の上に、彼女がじっと立っていた。僕が立ってる間、向うもじっと、夕日をあびて、僕の方を見ていた。一歩ふみだしたら、もう消えてしまった。」――おれは頭をかいた。――「そしてふだん、疲れた時とか、夜寝る時とか、その恋人のことを考えると、考えただけで、胸がしめつけられて
前へ
次へ
全37ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング