一人の思いに耽って、そこを出ました。そして進まぬ足でゆっくりと階段をおりて、玄開へ出ました。雪は薄く積ってるきりで、もう降りやんでいました。ちょっと佇んで外套の襟を立てていますと、いつしかそれが如何にも自然らしく、照子が追っついてきて肩を並べました。

「怒っていらっしゃるの。」と照子は尋ねました。
「なんにも怒ることなんかないじゃありませんか。」と木原は答えました。
 それは本当のことでした。然し、彼は怒ってはいませんでしたが、満足でもありませんでした。
 ――手袋もしていない手を、大勢の前で、長い間山崎に任せておくとは、どういうことだろう。但し俺は嫉妬しているのではないぞ。――自分が倒したのでもないウイスキー一瓶を、しかも飲み残しの僅かなものを、弁償する責任があるとは、どういうことだろう。俺の窺知し得ない心理だ。――あの眼鏡の枠縁の光りと、眼眸の光りと、二重の光りが、如何に深く俺の心臓に喰い入ってくることか。俺は泣きたい。
 それらの思いを、木原は照子に語りたく、而も言葉は見付からず、ただ黙々として歩きました。
 やがて、電車で、超満員の人込みの中に、二人肩を並べて立ってることに、
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