期まで意識がわりにはっきりしていたことや、咳はひどかったが喀血は殆んどなかったことや、講談本を読んで貰うのが好きだったことや、臨終の苦悶がごく軽かったことなど、大抵恒夫が聞き知ってる平凡なことばかりだった。弟のことや弟の母親のことなどは、一言も出て来なかった。そして、何度聞いても常に彼の心を打つことが、ただ一つあった。
 父は息を引取る四五時間前に、恒夫を枕頭に連れて来さして、その小さな手を五分間あまりもじっと握っていた。
 その間、子供は顔をしかめながら、一生懸命に我慢してるらしかったそうである。
「僕は本当に泣き出しはしなかったの。」と恒夫は尋ねた。
「いいえ、顔をしかめてこらえていました。眉根に八の字を作って、口を曲げて、おかしな顔をしていましたが、それでも泣き出しはしませんでしたよ。お父さんは、手を布団から差出して、あなたの手を握って、じっと眼をつぶっていらしたが、五分ばかりして……いえもっと長かったかも知れません、ふいに咳込みなすって、咳の中から手真似で、あちらへ連れてゆけという様子をなさるんです。子供に病気がうつってはいけないと、いつもお云いなすっていたから、屹度それを心配
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