なすったんでしょう。それから咳が鎮まって、あなたがまだ側に居るのを御覧なすって、なぜ早く向うへ連れて行かないんだと、大きな声でお叱りなさるんです。それで私は、あなたを向うの室へ抱いてゆきましたが、それから四五時間して、お父さんはもう駄目でした。私があなたを抱いて連れて来た時は、もう何にもお分りなさらないようでした。」
「その時……その前の時、お父さんは僕の手を握って、僕の顔をじっと見ていらっしゃりゃしなかったんですか。」
「いいえ眼をつぶっていらしたんですよ、そのままお眠りなさるのかと思ったくらいですもの。」
それでも恒夫はまだはっきり信じかねた。
彼は父の死については、殆んど何も記憶していなかったが、ただ一つの場面だけが、妙に頭の底にこびりついていた。父の馬鹿に大きな堅い力強い手が、自分の手をしっかりと握りしめており、父の落ち凹んだ鋭い眼が、じっと自分の顔を見つめていた――確かに見つめていた。そしてその手と眼とが、自分を何処かへ――気味悪い処へ、ぐいぐい引張ってゆこうとするので、一生懸命に怺えて歯をくいしばっていた。するうちに凡てから解き放されてほっとした。それだけのことだったが
前へ
次へ
全33ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング