かりうつすものだから、警察の厄介になったことも二度ばかりある。母親からの知らせを受けて、僕が貰いさげてやったが、真実の精神病者でないという説明には弱った。一更になお、彼を説服してその所謂研究をやめさせることは、到底僕の力では出来そうもなかった。警察に連れて行かれたりしたために、彼はばかげた幻影を描いて、自分の研究を邪魔しようとしてる者があると想いこみ、始終スパイにつけねらわれてると考えるようになった。
時機を待つ……或は何かの機会を待つ……それより外に方法はないと思って、それまでのつもりで、ごく僅かなことだが、僕は母親の生活を時々助けてやっている。
ところで、話は少し前に戻るが、竹山のスパイの幻影とならんで、も一つの幻影が描き出されるようなことになった。
六
神明町の崖の上に、もと木戸さんの邸内だったところに、ひどく美事な椎の木がある。それが……ほう、君はもう伯父さんから聞いたのか。実はそのことなんだ。散歩の折、ふと眼についたのだが、僕はとても好きになった。木に惚れこむなんて、おかしいだろうが、古人は、木や石を神にまで祭りあげたことさえある。
僕はその後度々その椎の木の方へ散歩の足を向けた。百坪ほども枝葉をのばして、こんもりと茂ってる、その若々しい大木を見るのは、何とも云えない喜びだった。するうちに、だんだんその木がほしくなって、そのあたりの更地三百坪余りを管理している人のところへ行き、どれほどの値段かなどと、勿論買えやしないが、試みに聞きに行ったものだ。ところが、その家の息子に顔を合わせると、どうだろう。僕の学校の卒業生で、而も僕が教えたことのある男なんだ。
座敷に引っぱり上げられて、いろんな話をし、あの椎の木が好きなことなど、笑い話にもち出したところ、先生なら……ということで、土地の買手がつくまでの条件で、椎の木のところ百二十坪ばかりを借りることになってしまった。そして、子供たちがはいりこんで木に登ったりして遊んでいるのが、木にさわるだろうというので、鉄条網をめぐらしたり、植木屋に手入をさしたり……他人から見たら正気の沙汰ではなかったろう。だが、僕はどんなに嬉しかったか知れない。その上、その木が市の指定木になっていて、個人の勝手にはならないので、そんな不自由な土地を買う者もなかなかあるまいから、僕がもし買うようなら、相当の便宜をはかって貰えることにもなっていた。買えるような金は到底なかったが、然し買うことも出来るということは嬉しい希望をもたらしてくれる。
僕は、恋人にでも逢いに行くような気持で、その椎の木を見に行ったものだ。木戸の鍵をあけて中にはいると、頭の上すれすれに、椎の枝葉が、百坪ほども伸び拡っているのだ。それは青葉の殿堂で、美しい日の光の斑点が天井一杯に戯れているし、凉しい風がかなた田端辺の高台から吹いてくる。
そして或る時、途中で竹山に出逢ったので、彼の頭にはよい影響を与えるかも知れないと思って、その椎の木のところへ連れていった。果して、竹山の喜びかたは大変なものだった。幹に手を廻してみたり、低い枝に登ってみたり、青葉天井に見入ったりして、ただ感歎し続けていた。新たに眼覚めたようないきいきとした光がその眼にあった。
僕は彼に木戸の合鍵をやって、いつでもはいれるようにしてやった。
彼は殆んど毎日行ったらしい。そしてその頃が、彼の頭の調子も最もよかった。
それまでは無事だったが、実はもう、そんな呑気なことをしながらも、僕の経済状態は破綻に瀕していた。少々てれる話だが、この土地の小鈴という芸妓と、いつのまにか深くなって、もうどうにもならないほどお互に愛し合っていた。そのために、可なりの金を使っていた。そこへ、或る義理合から、可なり多額の借金の連帯保証人となっていたのが、本人の歿落のために、すっかり僕へかぶってきた。学校の俸給と僅かな文筆の収入とでは、もうおっつかなくなった。負債の利子さえも払いかねた。そこで、椎の木――月に三四十円の借地料だが――それをも切りつめようとした。
竹山には気の毒だが、仕方がないので、そして彼の母親への立場もあるので、嘘を言って、椎の木の土地に買手がついたらしいから、近いうちにあけ渡さなければならないかも知れないと、それとなく暗示してみた。
竹山の精神は、その暗示にひどく敏感に反応した。そして彼特有の鋭い疑念をこめた眼付で、いろんなことを尋ねはじめた。僕がいい加減にごまかしていると、しまいには彼の方から、椎の木の土地を買おうとしている男が分ったと云いだした。
「原野権太郎という男ですよ。」
僕はあっけにとられた。何処に住んでるどういう男か分らないが、とにかく原野権太郎という男だというのである。彼はそれを後にハラゴンとつづめて云うようになった。
「大事な木
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