椎の木
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)感冒《かぜ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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一
牧野良一は、奥日光の旅から帰ると、ゆっくり四五日かかって、書信の整理をしたり、勉強のプランをたてたりして、それから、まっさきに、川村さんを訪れてみた。
川村さんはもう五十近い年頃で、妻も子もなく、独りで老婢をやとって暮していた。学者だが、何が専門で何が本職だか分らなかった。書斎にはいろんな書物がぎっしり並んでおり、雑誌や新聞に詩や批評や随筆などいろいろなものを書き、私立大学に少しばかり勤めていた。ひどく真面目なところと出たらめなところとがあった。その川村さんを、良一は尊敬もし好きであった。自分の遠縁にあたるのが自慢だった。
風のない薄曇りの日で、雪にでもなりそうな底冷があった。良一はマントの襟を立てて、川村さんの家へ急いだ。
老婢が出て来た。暫く考えてから答えた。
「いま、お留守ですよ。あとで電話をかけてごらんなさい。」
この婆や、いつもとぼけた奴だが、留守なのにあとで電話をしろとはおかしかった。だが、良一はそのまま、暫く外を歩き、それから見当り次第の喫茶店にはいり、時間をつぶして、電話をかけて見た。すぐに来てよろしいとの返事だった。
行ってみると、川村さんは熱をだして寝ていた。痩せた頬に髭がもじゃもじゃはえていた。
「おうちだったんですね。留守だというんで、時間をつぶすのに困りました。」
良一が不平そうに云うのを、川村さんはほほえんできいていた。
「うむ、誰にでも、留守だから電話をしろと、そういうことになってるんだ。面倒くさい者には会わないことにしてるものだから……。」
良一は苦笑した。――元来、川村さんは電話がきらいで、こんな不都合なものはないと不平を云っていた。戸締りをしておいても、夜遅くでも、電話というやつは、いきなりりりんととびこんできて、話しかける。家の中を往来と同じものにするというのだった。そんな嫌なものならやめたらいいでしょう、というと、それでも使いようによっては人間以上に役にたつ、というのだった。病気の時なんかうまく使ってるというわけなのであろう。
そこへ若い女が茶をくんできた。一度も見たことのない女で、それも、普通の女ではなさそうだった。洋髪に結った髪がばかに綺麗にさらっとカールしていて、黒襟のかかったはでなお召の着物をきていた。襟頸がすっきりとぬけて、顔の皮膚が不自然になめらかだった。木の葉にちらつく日の光のようなものが眼の中にあって、それが淡い香水のにおいといっしょに、良一の方へおそってきた。
女が出てゆく後ろ姿を、良一がけげんそうに見送っていると、川村さんは事もなげに云うのだった。
「ちょっと、手伝いに来てる女だよ。」
「ひどくお悪いんですか。」
「なあに、心配して来てくれてるんだが、ただの感冒《かぜ》だ。熱が少し。九度五分ばかりあるきりで、それも、すぐにさがる筈だ。」
ただの水枕きりで、氷もあててなかった。頬が少し赤くほてってるだけで、元気ではっきりしていた。酒に強いと同じに、熱にも強い、四十度くらいまでは平気だ、と彼は笑っていた。そして良一の旅の話をききたがった。
「奥日光……あの辺はいいね。戦場ヶ原から湯本温泉へかけて……。あすこに、温泉の湖水があるのを知ってるかい。湖水のふちから熱湯がわきだして、それが一面にたたえている。そして湖水の底からは、清水《しみず》がわいている。そこに姫鱒が養殖してある。釣りに出ると愉快だよ。舟にのって出かけるんだが、よく釣れる。針にかかったやつを、ゆっくり遊ばせながら引上げると、湖水のおもては熱い湯だろう、手元にくるまでには、鱒がほどよく煮えて、それを、酢醤油で食べるってわけだが……。」
湯の湖のことだなと良一は思いながら、笑ってききながして、スキーの話や熊の話をした。
「ずっと奥までは、雪のために行けないんだろうね。」と川村さんは云った。「こんど雪のない時に行ってみ給え、あれから山を越した先に、面白いところがあるよ。やはり温泉がふきだしているんだが、どういうわけか、温泉の中にとけこんでいる鉱物質がわかれて、それが岩のように固まり、次第に高く積って、今では小さな山ほどになっている。温泉は無限にわきだすし、鉱物質はかたまりつづけるし、毎日毎日高くなるので、何年か後には、世界にくらべ物のない名物となるだろう。湯の中の鉱物質、まあ湯の花だね、それがつもって富士山みたいになり、更に日に日に高くなりながら、その頂上からは温泉がふいている……。すばらしい
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