じゃないか。」
 川俣の噴泉塔のことだなと良一は思ったが、こうなると、少し腹がたった。子供あつかいにばかにされてるような気もしたし、或は川村さんはやはり熱にうかされてるんじゃないかと思った。そして何だか落付がなく、その上、菓子や珈琲をもって、ちょっと顔を出してはまた引込んでゆく、若い美しい女のひとのことがへんに気にかかった。そしていいかげんに帰ろうとした。
 その時、川村さんは急にまじめな顔をした。
「実は、君に少し頼みがあるんだが……。」
「ええ。何ですか。」
「金が、五千円ばかりいるんだが……どこか、僕に借してくれるようなところを、心当りがあったら、頼んでみてくれないか。担保になるようなものが何にもないので、全く信用だから、少しむずかしいかも知れないが……。」
 良一は眼を見張った。
「ほんとですか。さっきの……湖水や山の話みたいに……。」
「いや、これはまじめな話だ。五千円ぜひいるんだ。もし出来なければ、出来ないだけの覚悟をしなければならない。」
 良一は考えこんだ。
「急ぎなんですか。」
「一日も早い方がいいが、いつと期限はきまってはいない。」
「そうですね、五千円なんて、僕から話せるようなところはありませんが……考えて見ましょう。」
「ああ、頼むよ。五千円出来たら、ほんとに助かる。」
 とにかく奔走してみると約束して、良一は辞し去った。玄関で、黒襟の女のひとが、馴れた手付でマントを着せてくれた。

     二

 良一は狐にでもつままれたような気持だった。元来掴みどころのない川村さんのことではあるが、九度五分の熱、黒襟の女、人をばかにした話、それから五千円……。然し、この五千円だけはどうもまじめらしかった。金のことなんか今迄に一度も口にしたことのない人だけに、よほど困った事情があるのかも知れなかった。
 良一は心当りを物色してみた。話してみるようなところは一人きりなかった。それは彼の伯父で、川村さんとも知合いだった。然しそんな話は、伯母さんや家族の人たちの前ではしにくいので、会社の方に行くことにした。他に用もあったので、なか一日おいて、電話できき合せると、四時頃来てくれとのことだった。
 丸の内のオフィス街は、冬の四時頃にはもう日の光がなく、退出の会社員等が散乱して、慌しい気分にぬられていた。良一は他国にでも来たような気持で、伯父の会社にはいっていったが、その応接室で、三十分ばかり待たされた。それから伯父の室に案内された。
 古ぼけた羅紗で蔽われた大きな卓子の前に、革の椅子にぎごちなく腰掛けた時、良一は用件をきりだすのに困った。伯父は何かの印刷物をもてあそびながら、鼇甲ぶちの[#「鼇甲ぶちの」はママ]大きな眼鏡ごしに、じろじろ良一の方を眺めた。めったに顔をみせたことのない良一が、しかも会社の方で逢いたいというので、好奇心を起したのであろう。それでもやさしい調子で、いろいろなことを話してくれた。そして遂に向うから、何の用事かと尋ねた。
「少しお願いがあって参ったのですが……。」
「だから、その用向は……。」
「伯父さんは、あの、川村さんをよく御存じですね。」
「川村好太郎さんか、知っている。」
 その時伯父は、探るようにじっと良一の方を眺めた。良一はその視線に堪えられなくて、用件を簡単に述べた。――川村さんがひどく困った事情になってるので、五千円かして頂きたい……。
 かなり長い間、伯父は黙っていた。良一は不安になった。
「どういう事情で五千円の金がいるか、君は知っているのか。」
 良一は返事が出来なかった。
「どうして困るようなことになったのか、君は知ってるのか。」
 それも、良一には返事が出来なかった。
 暫く沈黙が続いた。
「何にも事情の説明も出来ないで、ただ五千円かしてくれとは、君にもあきれたものだ。それはまあいいとして、君は川村さんのことをいったいどう思っているかね。」
「…………」
「あの人は、気狂いだよ。」
 良一は眼を丸くした。一昨日逢ったばかりなのだ。感冒でねていたのだった。
「尤も、どこがどうと目立つところはないから、ちょっと分らないが、あんなのが、実は一番始末に悪い。」
「伯父さん。」と良一は身をのりだした。「くわしく説明して下さいませんか。」
「ははは、こんどは僕に説明せよというのか。まあこっちに来給え。」
 彼は良一をそばの椅子によんで、それから話した。――本郷神明町の高台に、非常にみごとな椎の大木がある。根本の周囲は二丈にあまる古い木で、それが、一丈ばかりの高さのところから、四方に枝を出し、枝は水平にのびて、百坪ほども拡がり、そして全体がこんもりと、円屋根のように茂っている。珍らしい木で、市の指定保存木となっている。ところが、その木をこめて、三百坪ばかりの地面が、更地《さらち》となって売物
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