に出ていた。川村さんは所有者と交渉して、椎の木のところ百五十坪だけを借り受けた。それも、よくは分らないが実は年賦で買い取る約束だとの話もある。いずれにせよ、椎の木のところ百五十坪を、年賦の条件か、高い地代を払ってか、とにかく自分の権利にして、板塀をめぐらした。それがこの夏のことで、何をするかというと、毎日のようにそこへ散歩にいって、椎の木の下でぼんやり一二時間をすごして帰ってくる。ただそれだけだった。それでももう充分、正気の沙汰ではない上に、これは内密のことであるが、或る青年をそそのかして、いろいろ非常識な悪事を行わせ、その気持をこまかくきいて、何かの研究の材料にしてるということである。本当かどうか分らないが、もし少しでもそういうことがあれば、これは常人のやるべきことではない。それにまた、さる芸妓となじんで、それを家に引き入れたり、外に連れ歩いたりして、そのために経済状態がめちゃだという。いろいろ考えて見ると、狂人としか思えないのである。
「そういうわけだから、君も、あの人と親しくしてるなら、それとなく様子を探ってみないか。僕もあの人を学者としては尊敬しているから、いよいよの時には何とか考えてみることにしよう。」
良一はさっぱり腑におちなかった。芸奴の一件は、あの女かと見当はついたが、椎の木とか青年のことになると、時々出入りしてるのに、さっぱりそんな様子は見えなかった。何かの誤解かも知れないし、も少し調べてみなければなるまいと、良一は気にかかってくるのだった。
そして用件はそれだけにして、良一は誘れるままに、支那料理をたべに伯父のお伴をした。伯父は老酒《らおちゅう》が好きだったので、良一もその相手をしてるうちに、いいかげんに酔ってきた。
伯父と別れて八時頃、良一は川村さんの方へまわってみた。
川村さんの家は、ちょっと引込んだ構えで、通りから五六間はいったところに、すぐ洋式の扉となっていた。良一がそこにはいりかけると、軒燈の光がうすくさしてる石の門柱のうしろに、背のひょろ長い青年が、帽子はかぶらず、外套の上から腕組をしてつっ立っていた。良一は伯父の話を思いだし、嫌な気持になって、一先ず通りすぎた。暫くして、戻ってきてみると、青年は先程と同じ姿勢で立っていた。良一は顔をしかめたが、思いきってはいっていった。
「もしもし……。」
声がしたので振向くと、良一の方をすかし見て云った。
「川村さんをお訪ねなさるんですか。」
良一は黙っていた。
「只今、お留守ですよ。」
良一がなお黙っていると、青年は鋭い眼付で見つめながら寄ってきた。
「もう一時間ばかりすれば、帰ってこられます。僕も先生に逢いに来たんです。ここで待っていても仕様がないから、一緒にお茶でものみにいきませんか。」
別に危険な人物でもなさそうだったので、良一はつき合うことにした、或はそれが伯父の話の男かも知れなかった。或は川村さんが逢うことをきらってる男かも知れなかったし、それならば、それをはぐらかすことは川村さんのためになるにちがいなかった。
良一は彼と並んで歩きだした。彼は既に行先がきまってるかのように、黙ったまま良一を導いていった。長髪をかき乱した浅黒い横顔。じっと据ってる眼付、すりきれた外套に破れかけた古靴、そしてへんに足が早かった。
だいぶたってから、彼はふいに云った。
「あなたは、川村さんとどういう関係の人ですか。」
良一はありのままを答えた。遠縁にあたるので昔から知っていて、時々遊びにくるんだと。
「それじゃあ、牧野さんですか。」
名前を云われて、良一は少し驚きもし、安心もした。自分の名前を知ってるくらいなら、この青年は川村さんとよほど親しいのであろう。
川村さんの家のある本郷林町の高台から、上野広小路の方へ、良一は彼についていった。途中、すれちがう人の顔を彼は次第に注視するようになり、そしていつしか彼に話しかけていた。
「……その好き嫌いという感情は、決定的なもので自分でどうすることも出来ないものです。電車にのっても、一寸見ただけで、好きな奴と嫌いな奴とは、はっきり別れるじゃありませんか。これは、相手の性質とか身分とか、そんなものできまるんじゃない。顔付です。ただ顔付だけです。それも、綺麗だとか醜いとか、色が白いか黒いか、そんなことじゃあない。もっと根本的なものがあります。猫は犬の顔をきらい、犬は猫の顔をきらうんです。それで僕は、そういうことを研究しようと思って、人間の顔を写真にとって歩いています。小さなコダックを胸にかかえて、向うから来る奴を、まず好きか嫌いか見ておいて、それを写真にとってやる。そういう写真を集めて、好きから嫌いへ順々に並べてみると、根本的な研究が出来るんです。ありふれた写真は、大抵にせものが多いから、本当に研究するには
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