た悲惨のなかに於ける母と子との愛情がどんなに強く深かったか、心ある者には分る筈だ。助力をあおぐ親戚とて殆んどなかったので、二人の心はなお深く結びついた。
母親は針仕事をなし、彼は小さな工場の事務見習に通勤した。そのうち彼は肋膜を病んだ。解雇と療養……。生活はどん底に陥った。近所の人の世話で、借金を拵えた。その借金がまた不幸の種だった。彼は回復して、僕の学校の給仕にはいることが出来、新たに奮発して、中学卒業の検定試験を受けようと勉強をはじめ、母親もほっと息をついたところ、六ヶ月期間の借金――それも二百円だが――それには、期限後は損害賠償の意味で、日歩二十五銭という高利の条件がついていた。二百円の利子十五円を毎月払うことが、彼等にどうして出来よう。そこへ、彼の母親に対して、半ば強請的な再婚の勧誘だ。再婚と云えば体裁はいいが、何でも或る老人相手の、妾とも世話人ともつかないような話だったらしい。彼女はもう四十近くなっていた。見たところ一寸上品な若さのある顔立が、いけなかったらしい。世間というものは、搾取価値のあるものは決して見逃さないのだ。
彼女は最後の覚悟をきめた。そして彼に向って、それとなく意中をうちあけた。そうした時、彼女がどういう言葉使いをし、どういう云い廻しをしたかは、普通の人にはとても分らない。彼は僕にその時のことをこう云った。
「母は少しも悲しそうな様子を見せませんでした。切ない眼色も見せませんでした。そして世間話でもするような調子で、人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]けば※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]くほど溺れるばかりだから、じっと流されていった方がよいだろうと、そんな風に話をしました。はっきりした事柄は一つも云わないで、よく分りよく腑におちるような、そうした話しかたでした。他人の噂さのような云いかたをして、その次に一言、わたしたちだってそうでしょう、と云いそえるのでした。ああ、わたしたちだってそうでしょう。たったその一言で、全体の話が実はわたしたちだけのことだと分るのでした。その言葉を云う時、鬢のほつれ毛が、こまかく震えていました……。」
僕にはその時の情景が眼に見えるようだ。母は今まで守り通してきた貞操を――それも夫に対してではなく、子の名誉のために守り通りしてきた貞操を――僅かな金銭のために、自分でふみにじろうとしていたのだ。それが、子の胸にもひしとこたえた。而も、長い間、悲惨のうちにも頼りきり愛しきって、崇拝に近い感情を寄せていた母親なのだ。
彼はその晩まんじりともしないで、幼い時からのことを考えなおしてみた。そして、悲しみの余り疲れて寝入ってる母の顔を、つくづく眺めた。それは神々しい顔だった。
彼は[#彼は」は底本では「僕は」]そっと起きだして、古い手文庫を持ちだし、中の写真をしらべてみた。母の写真が幾枚かあり、父の写真も二枚ほどあった。彼はそれを見比べた。それから、釘をとってきて、父の写真のあらゆる輪廓や顔立の線を、ぶすりぶすり突き刺した[#「突き刺した」は底本では「突き剌した」]。二枚の写真は、釘の穴だらけになって寸断された。悪夢を見てるような気持だった。
突然、とほうもない大きな声がして、彼は我に返った。母が泣いている。振向いた彼の顔を見ると、畳につっ伏して泣いた。悲しいというよりも、苦痛にたえないような泣きかただった。
「あんな泣きかたを、私は嘗て見たことがありません。」と彼は話した。
その時から、彼の頭の中で、父の面影と母の面影とが、全く相対立したものとなって分離したらしい。母の面影でさえ、もう現実の母の顔から遊離してしまった。そして彼は始終その二つの面影を見つめるようになった。一つは悪魔であり、一つは神であったろう。
こう云えば、彼というのが誰だか、もう君にも分った筈だ。あの、竹山茂樹なんだ。
竹山の話をきいて、僕はその家を訪れてみた。惨めな生活らしい様子だった。その頃、僕には多少余裕があったので、高利の負債の方は払ってやった。それから、竹山の家が丁度この土地の花柳界のそばなので、懇意な芸妓にわけを話して、平素着の仕立直しだのつまらない物の手入れなどを、出来るだけ頼むように計らってもらった。
母親の方は、それでまあどうにかなったが、困ったのは竹山だ。学校の給仕も勤まらなくなり、勉強も出来なくなった。別に精神に異状があるようにも見えないが、それかって普通とはちがっていた。初めは家に引込んで、へたな絵ばかり書いていたが、或る時、月末の金をひっさらって、写真器を買いこんできた。それから、君も見せて貰った通りの、その写真マニアだ。好悪の容貌の研究という理論だ。
写真器をもち歩いて、やたらに人の顔ば
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