を取って、ぱしっと床に投げつけ、微塵に砕いた。その時、隣りのボックスから一人の壮年が立ち上り、振り上げてる彼の腕を捉えて言う。
「やめろ、やめろ。やるなら、表に出てやれ。」
 やれ、という言葉が、酒をやれという調子に響く。
 青年は見向きもせず、はははと笑い、ボックスの奥に引っ込んで、相手とこそこそ話しだし、壮年も自分のボックスに引っ込んで、杯を挙げてるらしい。
 彼等は互に知り合いなのだろうか、それとも未知の間なのだろうか、さっぱり見当がつかない。見たところ、ただ、蛸が蛸壺からちょっと覗き出し、またこそこそと引っ込んだ、それだけのことに過ぎない。屋内の空気は水中のように静かだ。
 硝子の破片を掃きよせてる少女を横目で見やりながら、マネージャーの森田は言う。
「器物を壊されるのが、いちばん困りますよ。」
 至極もっともなことだ。
「然しわたしのうちでは、何を壊されようと、決して賠償して貰わないことにしています。」
 当然じゃないか。当然すぎて、面白くもおかしくもない。
 言うことは平凡だが、それでも、森田の眼はいい。くるくると動くどんぐり眼で、聊かの濁りも留めず、いつも四方八方を見てる
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