カーテンを開け放してあって、男はどこかへ行っていた。
 顔を洗って帰ってくると、ボーイが座席を片付けていてくれた。上段の男は、もう汽車から降りたのか、それらしい姿も見えなかった。
 汽車は琵琶湖の岸を走っていた。どんよりと曇った風のない朝だった。
 私は食堂へ行った。睡眠不足と疲労とのために、頭が重苦しかった。
 それから自分の座席に戻ると、私の側に、四十年輩の飛白《かすり》の着流しの男が坐っていた。そしてふいに私へ声をかけた。
「どこまでおいでになります。」
「下関まで行きます。」
 それには何とも返辞をしないで、だいぶ暫くたってから、ふいに云い出した。[#「ふいに云い出した。」は底本では「ふいに云い出した。」」]
「昨晩は、どうも……とんだ失礼をしました。」
「え?」
「少し飲んでいたものですから、よう寝込んでしまって、度々どうも……。」
「じゃあ……あの……。」
「え、足を……どうも……。」
「ああそうですか。私こそ失礼しました。」
「いや、どうも……その……習慣になってるものですから。」
 繰返される「どうも……」という言葉の響きに、私は彼の人の善さを感じながら、初めてその様子
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