そして眼をうすく開いて、男をけげんそうに見上げながら、やさしく頬笑んだ。男は安心して、電燈を消して寝た。
 ――或る夜、こんどは女が眼を覚して、手を伸ばして男の顔を撫でてみた。すると、その顔には眼も鼻も口もなく、のっぺらぽうだった。女はびっくりして、立ち上り、電燈をぱっとつけた。見ると、男の顔はいつもの通りで、しかも薄眼を開いて、女をけげんそうに見上げながら、やさしく頬笑んだ。女は安心して、電燈を消して寝た。
 ――そのようなことが何度かあった。そして男の方も女の方も、相手の顔が時々のっぺらぽうになるのは、あまりその顔を撫ですぎたからだと考えた。けれど、その顔のことや自分の考えのことは、胸の中に秘めて、相手には打ち明けなかった。そして次第に、夜眼を覚しても、相手の顔を撫でなくなった。
 それだけの話なのである。けれど、つまらない話だといくら思っても、私の頭からそれが消えなかった。ばかりでなく、私は実際、のっぺらぽうの顔を見た。
 その晩、祖母の気分がだいぶよいようだから、私は自分の室にはいって、久しぶりに、ドストエフスキーの飜訳小説の続きを読んだ。けれど、睡眠不足が重っていて、頭が冴え
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