ったとたんに、娘は地面に倒れたが、馬はまるで影か霧のように、すーっと通りすぎていった。
 こんな話、おれには何のことかよく分らなかった。お伽話でもないし、お化け話でもないし、いささかばからしくも思えた。北川さんもその当座、おれの批評など求めはしなかった。――それが、実は、病人の頭から醸し出されたものだったんだ。
 北川さんはまだ独身で、家庭には、年とった母と若い妹がいた。病人というのは妹のことで、その姿をおれが見たのは事件が起ってからのことだ。
 おれはただ生魚を時々持っていった。おれは魚屋じゃない。戦災で親たちが田舎へ引き込んだあと、一人東京に残って、まあ謂わば植木屋の手伝いみたいなことをしていた。忙しい仕事もめったにないし、あちこちに手蔓があるものだから、物品の仲立ちも少しはやった。大人でなくて小僧っ子なもんだから、却って便利がられた。けちな仕事だが、金は相当にもうかった。
 ところで北川さん……はっきり言えば北川辰治は、ちょっと文学者めいたところのある人だが、それでいて少しも気むずかしくはなく、至極のんびりしていた。どうして中学校の先生なんかしているのか分らなかったが、外になにも
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