った。
 ささやかな酒宴がはじまった。竹中さんもいけるたちらしい。酒がまわるにつれて、妙な話題が出てきた。おれは台所の用をすまして、縁側に置いてある電熱器で、手製の煎餅をやきながら聞いていた。
 ――世の中は隙間だらけだというのだ。原子とか分子とかいうものにも、隙間がある。そういうもので出来てる物質も、隙間だらけだ。――天井にも床にも、壁にも、隙間がある。塀にも隙間がある。――人の注意にも、隙間がある。心にも隙間がある。――だから、そういう隙間をねらえば、どんなことだって出来る。大きな木だって持ち出せる。人間だって持ち出せる。
 まあこんな風な、何もかもごっちゃにした話だが、中心はどうやら、あの梅の木にあるらしかった。あれは竹中さんの庭にでも植わってたもので、それをひそかに持ち出す興味と苦心とが、面白かったのだろう。――そんなことを問題にしてる竹中さんは、たしかに気が少しへんだ。話にのってる北川さんも、謂わば共犯者で、ちっとおかしい。
 然しその話は、終りまで続かなかった。玄関に人が来て、お母さんは暫く話をし、それから、玄関と茶の間との間を往復して、その人を茶の間に通した。
 竹中家のいろんな用をしてる番頭格の、山口という人だった。痩せた小柄な中年者で、禿げあがった額の下に、小さな眼が鋭く光っていた。一目見た時からおれはこの人が嫌いになった。山口さんなどとはどうしても言えない。山口と呼び捨てにするより外はない。
 山口は一座に会釈をして、言った。
「これは、お邪魔を致します。わたくしはただ、貞夫さんだけにお目にかかれば宜しいので、外に用はございません。」
 最初から角のある言い方だ。おれはどきりとした。だが不思議だった。当の竹中さんも、北川さんも、黙りこんだだけで、平気な顔をしている。
 山口は竹中さんの方を向いて、ずばりと言った。
「あなたをお迎えにあがったんですが、お帰りなさいましょうね。」
「ああ帰るよ。」
 おれにまで丁寧な竹中さんとしては、これはまた至極ぞんざいだ。山口は大きく頷いた。
「それで安心致しました。御両親もたいそう心配しておられますし、これから……。」
「あ、お父さんとお母さんは、いつみえるかね。」
 山口は小さな眼をしばたたいた。
「こちらへ来られることになっていたが……。」
「とんでもないことを仰言います。わたくしが代理でお迎えにあがったんでございますよ。」
 両親が来るというような竹中さんの言葉は、山口の憤慨を爆発させたらしい。彼は俄にまくし立てた。言い廻しは丁寧だが語調は荒かった。――昨日から貞夫が帰らないので、家の者は心配していた。貞夫はまだ充分に病気がなおってもいないし、物騒な時節柄だ。気をもんでいると、一昨日、庭の梅の古木を、植木屋が掘り返して、どこかへ運んだことが分った。それが貞夫の指図だ。植木屋をつきとめて、こちらだという見当がついた。それで、迎えに来た。いったい、どういう量見だったのか。梅の木の一本や、二本、惜しくはないが、なんで泥坊みたいな真似をするのか。誰かにそそのかされたのか。来てみると、しゃあしゃあと酒なんか飲んでいる。茶屋小屋ならまだしも、ここがどういう家か、よく考えてみたら分る筈だ。もと邸にいた娘の病気見舞いなら、見舞いのような方法もあろう。こちらだって迷惑だろう。近所に電話がないわけではあるまいし、泊まるなら泊まると、邸に電話でもするのが当り前なのを、いつまでも引き留めて酒のもてなしをするなど、以ての外だと、非難されても仕方がなく、そういう迷惑をこちらにかけては済むまい……。
 山口は竹中さんに向ってだけ話したのだが、次第に、北川さんへのあてつけが多くなった。直接に北川さんへは口を利くまいと決心してるようだ。その全体が、特別な話し方で、真綿に針を包んでいる。
 北川さんと竹中さんは、黙りこんだまま、知らん顔をして、煙草をふかし酒を飲んでいた。お母さんは奥の室の病人の方へ行った。おれはいらいらしてきた。煎餅をこがした。

 庭にはもう夕陽が薄らぎかけていた。山口はそちらへ眼をやって、梅の木を見付けた。
「ほう、梅はやはりこちらへ来ているようですなあ。」
 山口は無遠慮に立って来て、縁側の硝子戸を大きく開けて、庭を眺めた。
 その時、これもやはり隙間なのか、竹中さんは北川さんに小声で言った。
「お邪魔しました。これで失礼します。」
 お辞儀をするとすぐ、竹中さんは立ち上って、実にす早く、廊下へ出てしまった。山口が振り向きかけたとたんに、おれは言った。
「寒いなあ。」
 大きく開けてある硝子戸を、力一杯にぶっつけてやった。真鍮のレールで滑りがよかった。その戸をまともに受けて、山口はよろけ、縁外に飛び落ちた。
「乱暴な……。」
 山口はおれの方を見たが、おれはそっぽを向いていた。
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