傷を負った。
 そういうことで、おれは北川さんの書いた話を思い浮かべた。
 ――湯ヶ島から帰っても、貞夫は気分がすぐれず、時々病院に通っていた。そのうち、梅子が病気になって、自家へ戻ってきた。気管支肺炎から肋膜までわるくし、高熱を出した。だが幸に、もう殆んどなおりかけている。貞夫から何度か手紙が来たようだった。然し、二人の間に恋愛関係はないらしく、あっても大したものではあるまい。
「それだけのことだ。」と北川さんは話を打ち切った。
「それでまあ、梅の木は植えることにしたよ。樹木は大切にしてやらなければならんからね。」
「妹さんと仲がいいんですか。」とおれは聞いてみた。
「誰と……。」
「その竹中さんですよ。」
「あまり口数は利かず、静かに応対していた。そうして梅子と話してる時は、少しも変ったところは見えないがね。」
「ほんとにいくらかふれてるんですか。」
「それがどうも、確かには分らない。君もちょっと探ってみてくれよ。まだ若いが、君には、民衆の智慧があるだろう。つまり、健全な常識がある筈だ。」
 おれは物置小屋の外におり、北川さんは小屋の中にひっこんで、話をしていた。そしておれはへんな気がした。北川さんも少しどうかしてるんじゃないかと思った。
「とにかく、仕事を片付けましょうよ。」
「そうだ、そうだ。」
 北川さんは鍬を探しだして来た。おれたちは仕事にかかった。
 庭の土は思ったより柔かで、たやすく穴が掘れた。それへ梅の木を据えこむ段になって、竹中さんも立ち上って来て、加勢をした。梅の木の向きについて、うるさくいろいろなことを言った。それが一々もっともなのが、素人にしては、ふしぎだ。植付けを終えると、梅の木はそこにみごとな枝ぶりを示した。太枝に花が少し残ってるのだけが、却ってぶざまだった。
 木を眺めながら、縁側に腰かけて茶を飲んでいると、竹中さんはじっとおれの方を見つめた。いつまでも見つめている。そして言った。
「君は誰ですか。」
 丁寧な口の利き方だ。おれがためらっていると、北川さんが答えた。
「僕の従弟ですよ。」
「従弟さんですか。初めてですね。」
 おれの方で冷りとした。ジャンパーにゴム靴なんかの姿が顧みられた。だが、彼はもう北川さんと話しだした。
「あの枝は切った方がいいですね。」
「どれですか。」
「あの、こちらへ伸び出してるやつ……。」
「そう。ちと邪魔ですね。だが、若い枝のようだから、実はなるでしょうよ。」
 そこで、梅はいったい花の方が大切か実の方が大切かという話になって、禅問答のようなことが続いた。
「僕はたくさん実のなる梅が好きですね。」と北川さんは言った。
「僕はたくさん花の咲くのが好きですね。」と竹中さんは言った。
 それは議論じゃなくて、別々のことを勝手に言ってるような調子だった。どちらも、相手の言うことなんかまるで気にもとめず、独語をしてるみたいだ。側で聞いていると、おれはおかしかった。気がへんだとすれば、二人ともそうではないかと思われた。
 そのうちに、お母さんが帰って来た。北川さんは物蔭でお母さんとなにか話し合った。そこで、おれは帰ってゆこうとしたが、北川さんから呼びとめられた。
「ちょっと、使いをしてくれないかね。」
 北川さんは紙幣をおれに渡して、牛の煮込み屋から酒を一升ほど買ってきてくれと言った。ついでに、二百円ほど借りがあるから払ってくれと言った。
「母が金を拵えてきてくれたから、助かったよ。」
 北川さんは嬉しそうに笑った。
「借りてきたんですか。」とおれは思わず言ってしまった。
 北川さんはおれの顔をじっと見て、それから、さも重大な秘密でも洩らすように囁いた。――小さな貸家を一つ持っていたが、それを、親戚に頼んで、買って貰った。十万円になった。但し、借家人がはいっているので、それが立退いて空け渡しするまでは、月々三千円ずつ貰うことになっている……。
 それで、北川さんの暮し向きのことがおれにも分ったが、ちょっと淋しかった。そんな売り食いの仕方は自慢になるもんじゃない。だが、北川さんは自慢そうな笑顔をしているんだ。
 おれが眉根をしかめてみると、北川さんは何を勘違いしたか、おれの肩を一つ叩いて言った。
「とにかく、梅の木を持って来てくれたんだから、酒でも出さなくちゃなるまい。それに、両親が来るというから、そうなったら、ちと大変だ。米も足りないし、御馳走はなにもないし……ひとつ奔走してくれよ。」
 言うことは道理だが、考えの根本がどうもおかしい。竹中さんにかぶれたのかも知れない。
「万事引き受けますよ。」
 安心さしておいて、おれはまず、牛の煮込み屋の用だけは果してやった。だが、それだけで逃げるわけにもゆかない。なんだか気の毒だ。度が少し曲りかけてるお母さんを手伝って、台所の用をしてや
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