早春
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木《ぼく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+慍のつくり」、第3水準1−90−18]袍
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 もともと、おれは北川さんとは何の縁故もない。街で偶然出逢っただけのことだ。
 牛の煮込み……といっても、おもに豚の腸や胃や食道、特別には肝臓と心臓、そのこま切れを竹串にさして、鉄鍋でぐらぐら味噌煮にしたものだが、その鍋をかこんでアルコールを飲むという、この頃たいへんはやっている安直な飲み屋が、近くの街角に一つあった。
 おれも時々鍋をつっつきに寄った。気むずかしそうな大人たちがいない場合は、コップ一二杯飲むこともあった。そこで、初めて北川さんに逢った。帽子はかぶらず、マントにちび下駄の姿で、髪を短かめに刈った頭がへんに大きく見え、浅黒くて艶のわるい顔は善良そうだった。年は三十五六で、飲みっぷりがよかった。鍋の物はあまり食べず、焼酎……つまりアルコールの薄めたのを、二杯ほどあおって、あとは清酒のお燗したのをうまそうに飲んだ。飲みながら店の親爺と話をした。
「身投げのことを、絵や文章には、真逆様に飛びこむように書いてあるが、あれは嘘だよ。男でも女でも、逆様になんかなかなか飛びこみはしない。せいぜい横っ倒しで、たいていは立ったままの姿勢さ。水泳の飛び込みとは違うからね。やっぱり怖いんだな。或る時、寒い所で、女が身投げをしたことがあった。飛びこんだのが池で、氷がはりつめてたもんだから、両足は水にはいったが、大きな尻が氷につかえて、どうにも身動きが出来ず、もがいてるところを救いあげられた、という話があるよ。」
「へえー、ほんとですか。」
「ああ、実話だよ。」
 そんな話をする彼を、おれは、文学者か画家かでもあろうと思った。――ところが違っていた。中学校の先生だった。もっとも、ちょっとした読物ぐらいは書いていたんだが。
 飲んでしまうと、御馳走さんと大きな声で言って、出て行った。
 おれは親爺に聞いた。
「あの人、金を払わないね。」
「今日は持っていないらしいよ。またこんど、と小さい声で言ったろう。持ってる時に、いっしょに払うよ。」
「それはいいなあ。おれもそうしよう。」
「お前なんか、だめだ。あぶなくってね。」
 そんなことでおれはどうやら彼を好きになったらしい。そして何度か出逢ってるうちに、彼のところに病人があって生魚に不自由して困ってることを知り、時々生魚を届けてやることにした。牛の煮込み屋から遠くない所で、静かな裏通りの古い小さな家だった。彼は……北川さんは、おれのような小僧っ子を信用して、五十円ぐらいずつ先渡ししてくれた。その五十円も無い時があった。
「今日は金がないよ。二三日して来てくれ。」
 それから二三日すると、ふしぎに金が出来ていた。もっとも、おれの方でも、北川さんところでは、口銭はいっさい取らないことにしていたし、煮込み屋の親爺と同じように、掛売りの気前も見せてやった。
 或る時、北川さんはおれに尋ねた。
「君は、本を読むことがあるかね。」
「そりゃあ、僕だって、ありますよ。」
「いや、本を読むのが好きかと言うんだよ。」
「好きですよ。」
 そんならこれを読んでみろと言って、少年雑誌をおれにくれた。北川さんはへんに嬉しそうだった。道理で、雑誌には北川さんの名前のついてる読物がのっていた。
 おれには[#「 おれには」は底本では「おれには」]大して面白くもなかった。だが、その中のちょっとした話には、あとで思い当ることがあった。これは大事なことで、北川さんの文章をそっくり写すといいんだが、雑誌をなくしてしまった。
 話というのは、どこか山の温泉のことで、若い娘が一人、坂道の上に立っていた。坂道といっても、そこら全体が山腹で、はるかの谷間まで草原の斜面なのだ。
 ――その遠い低いところ、草原のはてに、一つぽつりと、黒いものが見えた。何だろうかと、娘はそれを見つめた。黒い一点は、動いていた。だんだんこちらに近づいてくるらしい。たいへんな速さで、こちらへやってくるらしい。次第に大きくなった。馬だった。人が乗っていた。馬も人も黒く見えた。それが、たいへんな勢いで、たいへんな速さで、草原を駆け登ってきた。ますます近づいてくる。ますます大きくなる。下方の谷間を流るる川や、そのあたりの畑地や、杉の木立など、パノラマのような美しい背景のなかに、人馬が大きく浮きだして、それが草原をいっさんに駆け登ってくる。五百メートル、三百メートル……あ、もうすぐ目近に来た。怪物のように大きくなった。それがまっ黒で、機関車のように突進して来た。ぶっつかった……と思
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