彼は何と思ったか、それきりで、額と腰をさすり、縁にはい上って、足袋底の泥を丁寧にこすり落した。それから席に戻って、室の中を見廻した。誰も口を利かなかった。
 玄関の方に竹中さんとお母さんの声がした。山口は出て行った。竹中さんはもう帰りかけていた。
 二人を送り出して、お母さんは茶の間に来た。
「おかしな人ですよ。つかつかとはいって来て、梅子の枕もとに坐って、早くおなおりなさい、きっとなおります、そう言って、両手をついてお辞儀をしました。可哀そうに、梅子が、ほろりと涙をこぼしたときには、もう室から出て行きかけていました。どういうんでしょうねえ。」
 お母さんは立ったまま話したが、それきりで、病人の方へ行った。
 北川さんは黙りこんで酒を飲んだ。そしておれにもすすめたので、遠慮なくおれも飲んでやった。
 北川さんがへんに考えこんでるので、おれは気を利かせて、やがて出て行った。北川さんとなにか話したいことがあるようだったが、それも諦めて、忘れた。
 それでも、やはり気になって、翌朝、行ってみた。

 台所で、お母さんが食事の仕度をしていた。おれは梅の木を見に行った。朝日がいっぱいさしてるあちらの縁側の、硝子戸の中に、北川さんと妹さんが何か話していた。
 おれは梅の木を見上げた。いろいろな思いが絡んでるので、身内のような気がした。
 北川さんが硝子戸をあけて、おれを呼んだ。
「よく来たね。」
 昨日と同じ挨拶だ。はればれとした顔をしていた。
 だが、それよりも、おれはびっくりした。梅子さんがとても美しかった。近くで見たのは、いや、ほんとに逢ったのは、初めてだ。梅子さんは日向にひきずりだした布団の上に、脇息にもたれて坐っていた。髪はおさげにして編んでいる。※[#「糸+慍のつくり」、第3水準1−90−18]袍にくるまった体はひどく細そりしている。ほんの少女という恰好だ。でも顔は一人前の女で、朝日の光りを受けてるせいか、肌が透き通ってるように見える。眼が黒々として底が分らない。下頬にぽつりと肉のふくらみがあって、小さな受け口だ。その全体がおれにはびっくりするほど美しく思われた。兄さんには殆んど似ていない。しいて探せば、額と耳が似てるぐらいだろう。
 おれがびっくりして梅子さんを見ていると、北川さんは言った。
「梅子は、君を医者よりも頼りにしてるよ。薬より魚の方が好きだからね。」
 おれは顔が赤くなるのを感じた。
「ほんとに、いつも有難いと思っていますの。」
 そう言って、梅子さんは黒々とした眼でじっとおれを見た。おれはへんに口が利けないで、眼を伏せた。
「その代り、お前の、童話を読ませてやったよ。」と北川さんは言った。「そら、お前が考えて、僕が書いたやつさ。」
 梅子さんはただ笑っていた。
 おれはそこにばかのように突っ立ってるのがつらくなって、お辞儀をして去ろうとした。すると、北川さんから呼びとめられた。
「実は、君にまた頼みたいことがあるんだがね。」
「ええ、なんでもしますよ。」
「おかしなことだが、あの梅の木なんだ。」
 北川さんは暫く口を噤んだ。
「あれを君にあげるから、いいように始末してくれないかね。薪なんかにしてしまうのは可哀そうだから、どこかに植えて、やはり生かしといて貰いたいんだ。とにかく、あれをまた掘り起して、ほかへ移すんだ。費用は出すから、頼むよ。」
「あすこに置いといては、いけないんですか。」
「折角のものだから、貰い受けるつもりだったが、あんなことがあっては……。あの嫌な奴さ、あんな奴に汚されては、僕はもう嫌になった。話をすると、梅子も嫌だと言う。どこか遠くへ持って行ってくれよ。」
 おれは首垂れてしまった。初めは意外だったが、その意外が意外でなくなり、北川さんや梅子さんの気持ちが、おれの中にもはっきり伝わってきた。
「分りました。」
 おれはそれだけ言って、くるりと向きを変え、梅の木を眺める風をした。そして眼を手の甲でこすった。涙が出てきてこらえきれなかった。
 なんで悲しいのか、おれにもよく分らなかったが、胸がつまって涙が出るんだ。梅子さんがあまり美しかったからだろうか。春先の感傷のせいだろうか。
 おれはそこらを歩きまわって涙をごまかした。それから、梅の木はおれが貰ってやろうときめた。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「苦楽」
   1947(昭和22)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(
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