一寸呆気にとられたが、静に歩み寄ってその肩に手をかけた。
「何だよ、こんなに遅くまで起きていて、そしてふいに泣き出すなんて……。もっとしっかりしてくれなくちゃ困るじゃないか。」
 彼女はもう立派にヒステリーを起していた。暫く泣きしきった後、彼の手を払いのけて、また一声泣き立てて、それから急に口早に云い続けた。
「私はもう駄目です。とても駄目です。いくら願っても子供なんか出来ません。毎月、月の初めに七日だけ、お地蔵様に日参を欠かしたこともないのに、どうして子供が出来ないんでしょう。私そのことを考えると、口惜しくて口惜しくて……。お千代にだってお常にだって、それから大阪のお蔦にまで、次から次へと子供が出来てゆくのに、私にだけは、冬子が一人出来たきりで、後がどうしてないんでしょう。皆から奥様と立てられたって、子供が出来なければ、ほんの飾り物で、床の間の置物と同じじゃありませんか。私どうしたらいいんでしょう。初めから子種がないのじゃないし、一人出来たからには、後が続いてもよい筈なのに……。いくらお地蔵様に日参しても、温泉にやって頂いても、そのしるしさえ見えないんですもの。私はもう駄目です、何もかも駄目です。このままで子供が出来ずに年をとってしまって、惨めな身の上になるばかりです。もう何もかも、何もかも、取返しがつきません。どうしたらいいんでしょう……。」
 余りの意外なことに、洋造は茫然とするばかりだった。そして漸くのことに一言云った。
「だって、一人あればよいじゃないか。」
 すると、それがなお彼女の神経をそそった。一人あるからなおいけない、初めから一人もないのならまだ諦めもつく、とそんなことを、彼女は涙ながらにかき口説いた。それが暫く続いてるうちに、彼女は血の気の失せた真蒼な顔を急に挙げて、唇の端に細かな震えを見せながら、彼の方へつめ寄って来た。
「あなたは、他の女にばかり子供を産ませておいて、私一人をないがしろにしておいて、それでよくも、皆の顔合せをしようなどと、そんなことが云えたものですわね。」
 言葉の調子が前とは全く違っていたので、洋造はぎくりとして少し身を退いた。
「あなたは私を正妻だ正妻だとおだてておいて、私が馬鹿なものだからいい気になって、皆の前で私に恥をかかせるおつもりなんでしょう。いくら私だって、そんなに踏みつけにされては、黙ってはおられません。」
 洋造は彼女の顔を見つめながら、つとめて平気な調子で云った。
「お前のように、そう無茶なことを云ってはいかんよ。俺は何も、お前に恥をかかせるだのお前を踏みつけにするだのと、そんなつもりではなかったんだ、よく気を鎮めて考えてごらん。お前に子供が出来る出来ないなんてことは、自分達の知ったことじゃないし、自分達の力でどうにもならないことじゃないか。俺はただ、子供がもう十四人にもなるので、一家が……栄えて……目出度いと思ったものだから……。」
 彼が云い渋ってるのを、彼女は頭から押っ被せた。
「何が目出度いものですか。私に沢山子供が出来て他の女に出来ないのなら、兎も角も、私には一人っきりで、他の女にばかり出来るのが、何が目出度いものですか。そんな風な考え方をなさるのが、第一私を踏みつけになすってる証拠です。」
 そういう彼女の考え方が、彼にはどうもはっきり腑におちなかった。云い争えば争うほど、益々変梃に分らなくなった。この上は彼女の気の鎮まるのを待って、ゆっくり話をした方がいい、とそう思って、腕を拱いたまま黙ってしまった。彼女はなお暫く、怒ったり悲しんだりしていたが、やがてぷつりと口を噤んだ。ぎらぎらした眼の光が消えて、変にぼんやりした眼付を空に据えて、頬の筋肉が堅くこわばっていた。その頬が弛んでくるのを待って、彼は初めて口を開いた。
「お互に云い争っていてもきりがないから、落付いて心の中のことを話し合ってみようじゃないか。」
 何の返辞もなかったので、彼は次の言葉を考えたが、先ず火鉢に炭をついで、熱い茶をのんだりした。
「俺のことはもうお前もよく知ってる筈だ。で此度は、はっきり俺の腑におちるように、お前の考えをきかしてくれないか。俺にはどうもお前の考え方がはっきり分らないんだが、……」
「先程から申した通りですわ。」
 平素の通りの調子で彼女は答えた。そしてその様子にも、もう苛立った所はなくなって、いつもの人形に返っていた。ただ眼からほろりと涙を落した。
「いや、お前の考えは分っているが、どうしてそんな風に考えるようになったか、それを聞かしてくれないか。」
 そして何度も促されて、彼女は静な調子で云い出した。
「前にお話したように覚えておりますが、私はあなたの所へ、自分の身を捨てるつもりでやって参りましたの。どうせ一度お嫁入りした身体だから、それを投げ出して、父のためを図りたい気もありましたし、あなたのお話を聞いて、生意気にあなたを救ってあげたいという気もありましたし、なんだかいろんな気持で参ったのでした。けれどもただ一つ、あなたの子供を産むことだけはすまいと、心に固く誓っていました。所が……冬子が出来てしまって、それから三四年たつうちに、自分の一生が何のための一生やら、これからどうなってゆくのやら、何もかも分らなくなって、それはほんとに淋しい頼り無い気持で、世の中が真暗に思われてきたのです。そして、まだその外にいろんな気持もあったようですが、ふとしたことから、昔のことを……。昔私にもやはり、恋人が一人あったのでした。恋人と云ってよいかどうか分らないくらいの、ごく淡い感じのもので、相手の人は私の気持なんか少しも御存じなかったのです。そして、イギリスへ行かれたきり、次第に消息《おとずれ》も絶えてしまいました。私の方でも結婚してしまい、次にあなたの所へ参るようになって、いつのまにかその人のことなんか、遠くへ忘れてしまっていました。そのことが、どうした拍子にか、ふと思い出されたり、夢に出てきたりするようになって、それからは妙に儚い気持に沈み込んでゆきました。その頃私は、よくこんな気持で生きていられると、自分でも不思議なほどでした。それがだんだん嵩じてきて、自分でも自分が分らないほどになってるうちに、どういうのでしょう、心持がまるで変ってしまったのです。あなたにかぶれたのかも知れませんわ。皆あんなに子供を次から次へと産んでるから、私だってまだ若いし負けているものか、沢山産んでやって、皆の者を見返してやれ……そんな気になったのです。田沢や吉奈の温泉に度々やって頂いたのも、そこの湯にはいると子供がよく出来ると聞いたからでした。そしてこの頃では、毎月初めの七日間は、お地蔵様に日参をしています。それからまだ、いろんなことをしてみました。けれど、駄目なんです。こんなにまでして子供が出来なかったら、自分はどうなるのだろう……と考えてくると、口惜しいやら情ないやらで、じっとしておられなくなります。そこへまたあなたまでが、皆の顔合せをしようなどと仰言るのでしょう。こんな心持で、どうしてお千代やお常の前に出てゆかれましょう。それこそ恥の上塗りですわ。考えつめてると、かっと逆上《のぼせ》てしまいそうです。いくら夫婦の間だって、こんな恥しい話は出来やしません。それを、あなたは無理に話さしておしまいなさるのです。……それでもやはり、皆の顔合せをしようと仰言るなら、それでも構いませんが、私は決して出ませんから……。あなたに話してしまった上は、猶更出られや致しません。私はもうどうせ初めから捨てるつもりの身体ですから、どうなっても平気ですけれど、せめて子供だけなりと、なぜ出来てくれないかと思うと、それが口惜しくて口惜しくて……。」
 ほろりほろりと彼女は涙を落しながら、丁度神の前にでも出たように、彼の前に首垂れて固くなってしまった。
 彼もその前に首を垂れて、ほっと溜息をついた。
「俺が悪かった、許してくれ。お前がそういう心なら、顔合せの会なんかどうだっていいのだ。それならそうと、初めから云ってくれれば……何も大したことではないし……。」
「でも私には一生懸命のことなんです。」
「それはそうだろうけれど……。いやもういい。そんな話は止そうじゃないか。」
 互にまじまじと心を見合ってるような沈黙が続いた。彼女はいつまでも身動き一つしないで、見た所やはりいつもの人形のように坐り通していた。するうちに、その眉根に深い皺が刻まれてきて、今にもぴくりぴくりと震え出しそうだった。彼はぎくりとして、じっとしていられなくなった。
「余り考え込むといけないよ。」と彼は云った。「もっと呑気に楽天的にしっかりしていなければ、世の中に生きていられやしないからね。お前は実際、一家の主婦で中心なんだから、お前がいなければ何もかもばらばらになってしまうのだから、そのことをよく心の中に据えといて、俺のために……皆のために、じっと落付いていてくれよ。頼む、ほんとに頼むから。俺もお前の話を聞いていると、何だか変な気持になってきそうだ。そんなのはいけない考えの証拠なんだ。どこか間違ってるに違いない。」
 云ってるうちに、彼は自分でも自分の言葉が腑に落ちなくなって、また黙り込んでしまった。それから、もう寝るように彼女に勧めた。彼女はおとなしく彼の言葉に従ったが、ただ、一言独語の調子で尋ねかけた。
「あなたは、もし誰にも一人も子供が出来なかったとしたら、どうなさるつもりだったのでしょう。」
「もう云わないでくれ。変な気がするから。」
 そして彼は其処に、一人起きていて、腕を組んで考え込んだ。妙に暖いひっそりとした晩だった。もし一人も子供が出来なかったとしたら、その先は――分らなかった。もしこのままでやたらに子供が殖えていったら、その先は――分らなかった。その二つの分らない問題を順々に考えてるうちに、いつのまにかぼんやりしてしまって、戸外に騒いでる不気味な猫の鳴声に、聞くともなく聞き入ってるのだった。
 そうした自分自身に気がつくと、彼は慌てて布団の中にもぐり込んだ。佗びしい索漠たる感じが四方から寄せてきた。その中で彼は、自分の過去をずっと見渡してみた。何もかも、道子のことも江の島の橋のことも先妻のことも、遠くぼんやりと霞んでしまっていた。がただ一つ、意外な方面から、綾子の若々しい顔付が覗き出してきた。
 綾子というのは、洋造の伯父の末娘の静子と同窓の親友で、女学校を卒業したばかりだった。前年の夏、戸倉温泉に行ってた伯父から洋造は手紙を貰って、いい処だから二三日遊びに来ないかと誘われて、何の気もなく行ってみると、伯父と一緒に静子と綾子が来ていた。伯父は同じ旅館に丁度よい碁敵を見出して、一日中大抵その方にばかり熱中していたので、洋造は自然静子と綾子とを相手にして、若々しい気持に遊びくらして、ついうかうかと十日余りすごしてしまった。静子は内気な弱々しい大人びた娘であったが、綾子は溌剌としたなかに危っけのある素純な娘で、無雑作に束ねてすぐに解けかかりそうな髪恰好と、その下の怜悧そうな広い額とが、全体の姿や調子によく調和していた。
 千曲川の河原が彼等の遊び場所だった。水に飛び込んで泳いだり小石原の上に寝転んだりした。川下《かわしも》の彼方に遠く北信の平野が見渡され、更にその向うには、戸隠や妙高などの奇峰が聳えていた。
「山だの川だの平野だの、皺だらけのところを見ると、地球も随分お婆さんね。」と綾子は云って頓狂な顔付をした。
「だって、地球は他の星に比べると、非常に若いっていうじゃないの。」と静子が答え返した。
「どうして。」
「あなたもう忘れたの、地理で教ったじゃありませんか。」
「そう。私忘れちゃったわ。」そして一寸小首を傾げた。「そんならあなたは、人間……人類だわね……人類の命は、地球の命の何分の一に当るかそれを知ってて。」
「知らないわ。聞いたことがあるような気がするけれど……。何分の一なの。」
「私も知らないわ。」
「まあ。」
 睥みつけた静子の前を、綾子は笑いながら逃げ出した。大きく牡丹くずしの模様のある単衣を、河原の小石の上に脱ぎ
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