」――それから男は、相手の女と出奔してしまって、何等の消息もなかったが、横浜から不意に人を寄来して、子供をくれと云って来た。――「あの女は屹度悪い病気を持ってるんだよ。それで子供が出来ないものだから、この子をふんだくろうとしてるのさ。」
 彼女は話し止めて、膝の子供の頭に頬をすりつけたが、子供がむずむずと動き出すと、いきなり胸をはだけて、乳房を子供の口に含ました。血管が一つ一つ透いて見えるほど、むっちりと張り切った大きな乳房で、子供はそれを、筋目の深くくくれた蝋細工のような片手で、やんわりと持ち添えながら、息もつかずに、咽せ返るほどぐっぐっと飲み下していった。冴えきった冷い月の光が、斜め上から降るように落ちていて、その乳房と手と子供の赤い頬辺とに、蒼白い艶を投げかけていた。
「どんなことがあろうと、子供は生みの母親が育てるのが本当だよ。」と洋造は云った。「生みの母親の手でなくちゃ、子供は本当に生々と育ってゆきはしない。向うで子供を引取りたがってるのは、父親の情愛が眼を覚してきたのかも知れないじゃないか。君がその子供を丈夫に育ててるうちには、向うの男も迷いがさめて、君の所へ心から戻ってくるかも知れないよ。何にしても、子供を手離しちゃいけないよ。養育料やなんかのことは、どうにだって交渉の仕方はあるだろう。子供は是非とも君が育てなくちゃいけない。君が生んだ子だから、そしてこれまで君が育ててきたんだから、今後も君が立派に育ててやるのが本当だ。」
 彼女は言葉の切れ目切れ目に、そうだよそうだよと云うように、軽く首肯いてみせていた。彼が云い終ると、ひょいと顔を挙げて、彼の顔をじっと見た。月の光を受けた仄蒼い素顔の中に、獣のように露わな眼が真円く光っていた。沖の方から吹いてくる風と共に、彼はぞっと肌寒い感じを全身に覚えた。
「兎に角子供を大事にするんだね。」
 そう云い捨てて、彼は何気ない風に歩き出した。橋の先端近くまでゆっくり歩いていって、同じくゆっくりと戻ってくると、二人の女はまだ前の通りの姿勢で、細々と語り合っていた。彼はこの上二人の話を聞くのが悪いような気がして、吸い残しの五六本はいってる敷島の袋とマッチとを、銀杏返の女に与えて通り過ぎた。
「……親切なお客さん。」
 尻上りの調子で束髪の女が云ったらしい言葉が、後ろから追っかけてきたので、彼はふと振向いてみたが、急に顔が赤くなるのを覚えて、すたすたと足を早めた。そして宿に帰ってすぐに寝た。
 それだけのことが、自殺の決心をしていた彼の悲痛な心へ、変に生温くからみついてきた。彼は翌朝、伊豆の方へ向って出発した。前夜二人の女が足を投げ出して坐っていた所には、冷かな朝風が颯々と吹き過ぎていた。
 彼は伊豆の温泉に四五日滞在した後、自殺の決心を飜して、急いで東京に戻ってきた。
 それから数ヶ月の間、津田洋造は花柳の巷へ屡々出入したが、大学卒業後半年ばかりにして結婚する時から、それをぴたりと止してしまった。その代りに、媒妁人へ向って次の条件を持ち出した。
「私は結婚後は決して遊里へ足を踏み入れはしません。けれども、他に女を――素人の女をかこっておいて、子供を産ませるようなことはあるかも知れません。そのことを承知の上で、そして生れた子供は自分の子として入籍するのを承知なら、すぐにでも結婚しましょう。不承知なら、私の方からお断りします。」
 そういう無茶な条件を、媒妁人は先方へ正しく伝えたかどうか疑問だが、兎に角縁談はすぐにまとまって、洋造は結婚してしまった。
 結婚後三日目に、彼と妻とは、新婚旅行の旅先で、次のような会話をした。
「お前は私の結婚条件を聞いたろうね。」
「ええ、少しばかり……。」
「そして何と思った。」
「そんなことを表立って云い出す方は、却って信頼出来る人だと思いましたの。」
「では、お前は一生の冒険をして私の所へ来たんだね。」
「と云いますと……。」
「私が実際そんなことをするかも知れないし、またはしないかも知れない、というのを、凡て天に任せるといった気持で……。」
「そうかも知れませんわ。」
「それでは、私がそんなことを実際にするとしたら……。」
「諦めますわ。」
「諦めるって……。」
「影に隠れて変なことをされるよりは、公然とされた方が却ってよいと、そう思い直すつもりですの。」
「お前は可愛いい楽天家だね。」
「あなたは楽天家はお嫌い。」
「いいや、大好きだよ。私には悲観主義くらい嫌なものはない。」
 そして津田洋造は、その可愛いい楽天的冒険家たる妻のために、善良なる良人となろうかと、一寸思い直しかけたが、失恋の痛手や江ノ島の橋の感銘は案外根深いもので、新妻に対する彼の愛情を妨げると共に、彼を初めの意向に立還らしてしまった。
「子供を沢山拵えてやれ。恋とか愛とかいう空疎なものをぬきにして、実質的な重みのある子供を思う存分豊富に拵えてやれ。」
 そして彼は、友人の紹介で或る秘密な家へ出入して、其処で出逢った女に、先ず腕相撲を挑んだ。大抵は相手にされなかったが、中に一人、顔はそう綺麗でなかったけれど、恰幅のいい腰のどっしり据った女がいて、彼に力一杯ぶつかってきて、何度も彼を打負かした。彼はその女に眼をつけて、遂に自分の所有にして、家を一軒持たしてやった。
 それまではまだよかったが、そして其後二三の失敗の後、彼は自家の小間使のお常という女が、いつも頸筋にねっとりと鬢の後れ毛をからみつかせてるのに、ふと眼を惹かれて、その親元と交渉の末、家を一軒持たした時、彼の妻は遂に激昂して生家に帰り、離婚の請求をしてきた。それでも彼女は、自分の産んだ長男一郎を乳母の手に托して、後々の始末を立派につけておいてくれた。
 離婚後洋造が最も困ったことは、お千代――腕相撲の強い女――とお常との腹に出来る子供の入籍問題だった。自分の子供は凡て庶子としないで嫡出子とすることに、彼の唯一な道徳的矜持があった。そこへ、折よく再婚問題が起ってきた。相手の女は、彼の会社の下役の娘で、一度結婚したが良人に死なれて、今は自家に戻ってるそうだった。
 彼は先ずその女に逢ってみた。蒼白く痩せてはいるが可なりの美貌だった。ただ少し頭にぬけてる所がありはすまいかと思われるほど、無反応な張合いのない人形のような女だった。彼は自ら進んで、自分の過去の経歴や人生観などを語ったが、彼女は黙って聞いてるきりで、彼の失恋のくだりなどにも、眼に涙一つ浮べなかった。そして自分の方の経歴については、余り話したがらなかった。それでも最後には要領よく、彼との結婚を承諾した。それが今の妻の八重子である。
 八重子と結婚してからは、洋造の生活は万事順調に進んだ。父の遺産は次第に殖えていった。お千代とお常とは幸に多産で、お千代は五人の子を産み、お常は四人の子を産んだ。それから洋造は、仕事の関係上大阪へ行くことが多かったので、大阪にも一人の妾を置いたが、それが二人の子供を設けた。それらの子供の入籍を、時によると年に二人もの入籍を、八重子は平気で承諾した。ただ八重子自身は、結婚後四年目に、冬子一人を産んだばかりだった。
「兎に角一家繁昌で目出度い。」と津田洋造は考えた。
 その目出度い一家の、一人の父親と四人の母親と十三人の子供との会合を、どうして八重子が嫌がるのか、彼には合点がゆかなかった。その上八重子の口振りによれば、彼女は何か新たな行動や思慮を取りかけているらしかった。彼はじっと八重子の様子に眼をつけ初めた。そして彼女の意外な変化に喫驚した。
 どこか少しぬけてるらしいほど無反応だった彼女は、今では可なり敏感にさえなっていた。長男の一郎はもう小学校の五年生になっていたが、来年は中学の入学試験を受けなければならないと云って、八重子はひどく彼に勉強をしいて、彼が少しでも怠りがちな時には、酷しく叱りつけていた。そういう折に洋造が口を出したり、または、冬子ももう幼稚園に通うようになって世話がやけないから、お前が少し俺の用をも手伝ってくれと、洋造が忙しさの余り云い出したり、其他子供に関係のある事柄が出てくる際に、八重子はともすると険悪な言葉付になって、ヒステリーを起しかねない気色さえ示すことがあった。この前大阪のお蔦に子供が産れた時などは、些細なことに本当のヒステリーを起して、四五日むっつりと黙り込んでいた。いつも人形のようにちんまりと坐ってはいるが、眉根をぴくりぴくりと震わせることが多かった。
 いつの頃からいつの間に彼女がそうなったのか、実業界に忙しく飛び廻っている洋造には、さっぱり見当がつかなかった。彼が気付いた時には、彼女はもう善良な人形ではなくて、危険な人形となっていた。そして彼自身もいつとなしに、その危険な人形に対して、壊れ易い瀬戸物にでも対するように、手を触れないでそっとしておく習慣がついていた。
 こんな筈ではなかったが……と彼は眼を見張った。然しなぜそうなったかは、彼には少しも分らなかった。
 桃の花が散り落ちる頃から、お千代の出産日が迫ってきた。洋造は或る晩、酒に酔って上機嫌で帰って来て、八重子の眉根の震えがないのを見定めて、笑いながら云い出した。
「おい、お千代が間もなく子供を産んで来れるそうだよ。男だったら九郎となる順番だし、女だったら……藤の花が咲く頃だろうから、藤子と名づけるつもりだが、九郎より藤子の方が響きがよくていいね。だがまあどちらにしたって、それで十四人になるわけだ。十三という数は、西洋でいけないとしてあるから、なんだか気になっていたが、それを通り越すのだから目出度いよ。……これで何だね、十四人になったのだから、この秋頃には、一つ例の顔合せの会合でも催してみようじゃないか。それまでに誰か、お常でも、も一人子供を産んでくれて、十五人になると丁度いいんだが、然し十四人だって、俺の四十という年を逆にした数だから、却っていいかも知れない。」
 八重子は眉根をぴくりとさして、何とも言わなかったが、彼がその日の書信に眼を通し終って生欠伸《なまあくび》をかみ殺してる頃、不意に彼女の方から尋ねかけた。
「あなた、お千代がまた子供を産むと云うのは、本当のことでございますか。」
「本当だとも、そんなことに嘘を云ったって初まらないじゃないか。」
「そして、子供が十四人になったら、皆の顔合せの会をなさるおつもりですか。」
 彼女の蒼白い顔に険を湛えてるのを見て取って、彼は少し云い渋った。
「そうさね、お前が皆の母親ということになってるし、お前だけが俺の正しい妻なんだから、万事はお前の気持次第なんだが……。」
「私はどう考えても嫌ですわ。」
「それじゃ止してもいいさ。……だが、お前はこの頃何だか様子が変なようだが、一体どうしたと云うんだい。それとも、初めからの約束が今になって嫌になったのなら、そうとはっきり云ってごらんよ。俺だって考えを変えないこともないからね。」
「いいえ、そんなことではありません。商売人の不見転《みずてん》なんかに手出しをなさるよりは、はっきりこれこれときまってる方が、まだよいと思っていますわ。」
「それでは、お前の考えてることは一体何だい。俺にはさっぱり見当がつかないんだが……。」
 そして彼は出来るだけ言葉の調子を和げて、彼女の意中を探りにかかったが、彼女はぴたりと心を鎖して一言も洩さなかった。しまいには彼も諦めて、先に床に就いた。
 その夜中に、彼はふと変な心地で眼を覚した。隣りの室に人の気配がするようなので、なおはっきり眼がさめて、気がついてみると、傍の布団に寝てる筈の八重子がいなかった。それが変に気にかかって、だいぶ待って後に、起き上って隣室を覗いてみた。
 彼は喫驚した。八重子がしょんぼりと火鉢にもたれて坐っていて、※[#「臣+頁」、第4水準2-92-25]を襟に埋めて考え込んでいた。
「どうしたんだい。」
 八重子はひょいと顔を挙げて、何かを見定めるらしく彼の立姿をじっと見つめていたが、俄に寒い風にでもあたったかのように、ぶるっと一つ身震いをした。と殆んどすぐにわっと泣き出してしまった。
 彼は
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