人間繁栄
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)幾人《いくたり》女を
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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津田洋造[#「洋造」は底本では「洋蔵」]は、長男が生れた時、その命名に可なり苦しんで、いろいろ考え悩んだ末、一郎と最も簡単に名づけてしまった。長女が生れた時も、やはり同様にして、丁度春だったので、春子と最も簡単に名づけた。そして、それが結局好都合となった。彼は男の子が出来る毎に、二郎、三郎、四郎……と順々に名づけていった。九郎まできたら、此度は自分の名前を一字冠して、洋一郎、洋二郎……としてゆくつもりだった。女の子に対しては、生れた時の季節や花の名などをつけることにした。そして今、四十歳にして彼は、男の子が一郎から八郎まで八人、女の子が春子、冬子、梅子、秋子、桃子の五人、合計十三人の父親だった。
十三人というからには、勿論母親は一人ではなかった。皆合して五人いた。
男一人に女五人、そして子供十三人、これなら充分一家繁栄で、目出度くなくもない……と津田洋造は考えた。そして自分が四十歳になったのを機会に、皆一堂に会してみたらと思って、妻の八重子に云ってみた。
「俺はもう四十になったのだから、体力の方から云えば、一生の盛りを越して、これから次第に衰えるかも知れないし、それよりも先ず第一に、酒の量が多いから、脳溢血だの脳貧血だの、そんな風な病気で、いつころりといってしまうかも分らない。だから、今のうちに、四十になったのを機会に、一度皆一緒に……お前が知ってる通り、丁度十三人の子供があって、互に会ったこともないのがあるから、一緒に集ってみたらと思うんだがね、どうだろう。一つ賑かに、園遊会みたいなことをやってもいいし、何処かへ出かけていってもいいし、兎に角皆の顔合せだけを、何とかしてみたいと思うんだがね……。」
八重子は長火鉢の前に、人形のように坐っていたが、眉根をぴくりとさした。
「そして、母親達も一緒でございますか。」
「そうさね、乳飲児や小さいのがあるから、子供ばかりというわけにもゆくまい。」
「それでは私だけ欠席さして頂きます。家の子はもう私が参らないでも大丈夫ですから。」
「それは困るよ。欠席とか出席とかそんな問題じゃないんだ。お前が俺の妻として、会の中心になってくれなくちゃあ……。」
「私は嫌ですわ。大勢の前に恥をさらしたくはありません。」
「だって、そんなことは、初めからお前も承知していることだし、子供もみなお前の子になってるじゃないか。俺が他の女に子を生せようと、お前を妻として立派に立ててさえゆけば、それでいいというような約束じゃなかったのかね。」
「ええ、私はそれを兎や角云うのではありません。あなたが他に幾人《いくたり》女をお持ちなさろうと、幾人子供をお拵えなさろうと、それは初めから承知の上のことですから、何とも思ってやしませんし、あなたの本当の妻として、他の女達に指一本指させはしませんけれど、それでも……恥は恥です。」
「恥だって……。ではお前は、初めから不承知だったんだね。」
「いいえ、そんなことを云ってるのじゃありません。あなたは、私が毎日何をしてるか、ちっとも御存じないんでしょう。」
「お前が毎日何をしてるかって……。一体何のことなんだい。はっきり云ってごらんよ。」
八重子は顔を伏せて、黙り込んでしまった。
「おい、どうしたんだい。お前が思ってることを、すっかり云ってごらん。俺はいつもこの通りに、何一つ隠し立てをしたことはないじゃないか。」
八重子はひょいと顔を挙げた。眼がぎらぎら光っていた。
「私だって、あなたに隠し立てをしたことはありません。」
「でも今現に、俺が聞いてもはっきり云わないじゃないか。」
「そんなことを、誰だってすぐに云えるものですか。あなたにはちっとも察しがないんです。こんど……子供でも出来たら、すっかり云ってあげます。あんまり人を踏みつけになすっていらっしゃるから……。」
「え、とんでもないことを云っちゃいかんよ。俺がお前を踏みつけにしてるなんて、馬鹿な。だからすっかり云ってごらんと云うのに。俺に悪いことがあれば何でも改める。え、何のことなんだい、お前が云ってるのは。子供が出来たら云うなんて、そんな待遠いことをしないで、今すぐに云ったらいいじゃないか。」
「だからあなたには何にも分らないんです。」
ぷつりと云い切って、彼女は眉根をぴくぴくさした。それは気持の険悪な証拠だった。この上云い争えばヒステリーを起すかも知れない、と洋造は思って、その問題には触れないことにした。
「では、皆の顔合せの会合は、お前の気持がよくなるまで延しといてもいい。」と彼は云った。
それでも、折角思い立ったことを中途で止すのは、如何にも残念だった。四十になってこれから老衰期にはいるとか、いつ病気で頓死しないとも限らないとか、そんなことは妻に対する単なる言葉の調子で、実際の感じとは縁遠いものであったけれど、十三人の子供を一堂に会合させるということが、この上もなく痛快に思えるのだった。
その痛快だという気持は、二十五六年前まで遡る。
その頃、大学四年の間、津田洋造は一人の恋人を守り続けて、品行方正な学生として通した。然るに、卒業してすぐに結婚しようという希望が、眼の前に迫ってきた間際になって、その恋人……道子から裏切られてしまった。それも、道子の家庭の事情や道子の境遇などからして、止むを得ない成行ではあったろうけれど、彼は一図に失恋の悲痛に馳られて、自殺の決心をした。
彼の家に、無銘ではあるが、長義の作だと伝えられる、白鞘の短刀があった。彼はそれを持出して、甞て道子と二人で甘い一日を過したことのある、江ノ島へ出かけた。勿論その時、どういう方法で何処で死ぬかを、はっきりきめていたわけではなく、ただ漠然と、万一の用意に短刀を携えて、失った恋の追跡を最後に訪れたのだった。そして、道子と共に昼食した旅館へ、ぼんやりはいり込んだ。
わりに暖い初冬の日だったが、客は極めて少なかった。かすかに聞ゆる波の音と共に、夜はしみじみと更けていった。彼は八畳の座敷に一人ぽつねんとしていたが、ふと物に慴えたようにぎくりとしながら、短刀の鞘を払って、一点の曇りもない皎々たる刀の、刀先から鍔元までを、じっと電燈の光にかざして見た。心の底まで冷く冴え渡って、刀の方へじりじりと迫ってゆく。そして胸の何処か遠い奥の方で、宛も夢の中のように、道子、道子……と恋人の名が繰返される……。
廊下に女中の足音がしたので、彼ははっと我に返って、短刀をしまった。それから何の気もなく外へ出てみた。短刀の刀を見てるのと同じ気持の、冷く冴え返った月夜だった。彼は賑かな神社と反対の方へ、橋の方へ歩いていった。
うとうと居眠りをしてる橋番の前を、懐手のままふらりと通りぬけて、ひたひたとした波の音に聞き入りながら、首垂れて機械的に足を運んだ。
橋の半ば近くまで来た時、彼はぞっとして立竦んだ。すぐ其処に、橋の北側の欄干に背をもたせ、橋の上にじかに坐って両足を投げ出し、月の光を正面から白々《しらじら》と受けて、二人の女がいた。一人は銀杏返《いちょうがえし》に結った年増で、旅館の女中らしい服装をし、一人は背も少し低く年も少し若く、小さな束髪に結って、白粉っ気のない浅黒い素顔で、膝に二歳ばかりの子供を抱いていた。
彼は初めの驚きが静まると、思わず二三歩近寄っていったが、言葉が独りでに先に出た。
「何をしてるんだい。」
銀杏返の女が、浴衣の上に褞袍《どてら》を重ねた彼の姿をちらと見上げて、落付いた調子で答えた。
「風流でしょう、橋の上からお月見で……。」
彼は苦笑したが、一寸その側を離れ難い気持になって、橋の欄干に腰をもたせながら、煙草を吸い初めた。二人の女は、彼が側にいるのを一向気に留めぬらしく、先程からの話を続けていった。同郷の者とか以前同じ所で朋輩だったとか、そういった風な親しい間柄で、而もだいぶ久しぶりに出逢ったものらしく、束髪の女が銀杏返の女へ向って、縷々として身の上を訴えていた。男に逃げられて、子供と二人で困っている、その後の処置に就いて、相談をしてるようだった。然し彼は、彼女等の話に耳を澄すというよりは、夜更けの橋の上で彼女等とひょっくり出逢ったという情景に、場合が場合だけに心打たれて、しめやかな淋しい気持で、茫と月の光に浮出してる遠景を眺め入った。黒々とした腰越あたりの山の端から、遠く三浦半島の山々が灰色に浮出して、その右手に満々たる海が、月の光をさらさらと映してる先は急に黝んで、魔物のように横たわっている。その沖の方から、冷々とした風が吹いてきた。
彼が二本目の煙草を吸っていると、銀杏返の女が不意に呼びかけた。
「旦那さん、済みませんが、煙草を一本御馳走して下さいな。忘れてきて困ってしまった。」
彼は二歩近寄って、敷島の袋とマッチとを差出した。彼女は煙草を一本取って、マッチで火をつけてから、それを返しながら、初めてじっと彼の顔を眺めた。
「あら、御免下さい。私あなたを、家《うち》の昼間の……あのお客さんだとばかり思って……。」
彼女が名指した旅館は、彼のとは違っていた。
「いいじゃないか、」と彼は云った、「どうせ同じ島の客だから。」
「ですけれど、あんまり失礼なことを……。」
それでも彼女は、煙草をすぱすぱやりながら、彼の方へ話しかけてきた、彼がもう凡ての事情を知ってでもいるもののように。この女《ひと》は男から子供の養育料を取りたいのだけれど、男が応じないので困ってるのだとか、男がしきりに子供を取上げようとしてるので、渡してやったものかどうか迷ってるのだとか、裁判にしないでうまくまとめたいのだとか、そんな風なことを……。
「兎に角、どんなことになっても、」と彼は云った、「子供は母親の手で育てるのが本当だね。」
「ええ、そうですとも。」と束髪の女がすぐに応じた。「今更あの男は、子供をくれなんて云えた義理じゃありません。私が子供を生むのを、あんなに嫌がっていたんだから。」
そして彼女は、もう何度かしたらしい話を、半ば相手の女に半ば彼に、また繰返し初めた。――彼女が妊娠したのを知った時、男は俄に不機嫌になって、些細なことにも彼女を打ったり叩いたりして、しまいにはひどいことを勧めだした。――「私はそればっかりは、どうしても出来なかった。意地になって生み落してやるぞと思って、我慢に我慢を重ねて、とうとう生み落してやった。」――その頃から、男は心変りがして、近くの飲食店の女中とくっついた。彼女の不在の折には、その女を家の中に引張り込むことさえあった。彼女はもう我慢をしかねて、産後引続き一年足らずの間気を揉み通しだったため、多少逆上の気味も手伝って、思い切った計画をめぐらした。或る口実を設けて、一晩家を空けるということにして、子供と牛乳の瓶とを男に預けて、夕方から家を出た。そして夜遅くなるまで方々ぶらついた。春先のことで、白椿の花に何度か喫驚した。それから頃合をはかって、家の裏口から忍び込んで、出刄庖丁を片手にして躍り込んでやった。思った通り、男は女を引張り込んで、同じ布団の中に寝ていた。――「私もうかっとなって、胸がこんなに脹れ上って、この野郎と思うと、初めおどかすつもりだったのが本気になって、出刄庖丁で一つぐいと抉《えぐ》ってやろうとしたよ。するとね、二人の間に、子供がすやすや眠ってるじゃないか。眼の前がほんとに真暗になって、それからもう何もかも夢中さ。出刄庖丁を投り出して、わっと喚き立てて、子供を引ったくって、外に飛出したまでは覚えてるが、あの二人がどうしたか、子供がどうしたか、ちっとも頭に残ってないよ。私はその晩中、子供を抱いてうろついたせいか、子供が風邪を引いて、翌日《あくるひ》からひどく熱が出てね、もう駄目かと思ったよ。
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