すてて、下に着ていた海水着一つで、川の中に飛び込んでいった。
「ねえ、来てごらんなさいよ、鮎が沢山いるから。」
「嘘。」
「ほんとよ。」
 やけに水の中をばちゃばちゃやった。
 静子はのっそり立上って、水際へ行って覗いてみた。その後ろから、洋造が伯父に借りた海水着一つで飛び込んでいった。鮠《はえ》の子が方々に泳いでいた。
「綾子さんにこれが一匹でもつかまったら、何でも望み通りのことを聞いてあげますよ。」
「どんなことでも。」
「ええ。」
 水を乱さずにそっと狙い寄ったり、不意に馳け出して追っかけたりしたが、小鮠はすいすいと身をかわして平気な風をしていた。洋造と静子も一緒になって追い廻したが、一匹もつかまらなかった。帽子の縁まで水だらけにして、すっかり疲れきって、三人は熱く焼けている河原の上で休んだ。
 清いさらさらとした流れと、円い小さな石の河原とに、ずっと下の方まで、子供や大人の麦稈帽が点々と散らばっていた。
 その河原の上を、月の晩には、昼間の嬉戯を忘れはてた落付いた散歩をした。静子と綾子とはよく歌をうたった。静子の声は細かな顫えを帯びており、綾子の声は張りのある朗かさを帯びていた。
「月の光で見ると、津田さんは何だか憂鬱そうにお見えなさるわ。」と綾子は云った。
 洋造は苦笑しながら、黙って二人の傍について歩いた。
「綾子さんはあなたのことを……。」
 静子が云いかけるのを、綾子は駄々っ児のように、首と手とを打払って止めようとした。その様子が可笑しかったので、静子はくすくす笑い出した。
「何です、僕のことを。」
「いえ、何でもないの。」と綾子はもう澄し返っていた。
「あのことですか、ヒポコンデリーの獅子だという……。」
「あら。」
 二人は同時に足を止めた。
「僕の耳は千里耳だから何でもすぐに聞えるんだよ。でも獅子は有難いな。そのお礼に、詩人めいた素敵な名を二人につけてあげましょうか。」
「ええ、どうぞ。」
「そうだな……静子さんは水中の夢で、綾子さんは空中の夢……ってどうです。」
「水中の夢に空中の夢……。」
 静子はそう繰返して微笑したが、綾子は喫驚したような眼で彼の顔を見上げた。
 流れの上に渡してある低い小さな仮橋から、きらきらと水に映る月の光を見て、宿の方へ帰っていった。
 月を見るなら、川向うの鏡台山に是非登ってみなくてはいけない、と旅館の人にすすめられて、洋造と綾子とは或る晩出かけた。夜の山は物騒で恐いと云って、静子は一人残ることになった。
 獅子ヶ鼻を廻って大正橋にかかると、川下の方から冷々とした風が吹いてきた。妙に空気が稀薄に思える晩で、月の光が白々として、両岸の山がすぐ近くに迫って見えた。鉄道線路の灯が瞬いてるすぐ上方に、鏡台山一帯は真黒く魔物のように蹲っていた。
「もう止しましょうか。」
「ええ。」
 長い大正橋を渡りきって、向う岸を溯って、いつもの河原に来て休んだ。仄白い河原の小石と浅瀬の水音と、月の光と、それからあちらこちらに散歩の人の姿が見えた。
「静子さんは利口ですね。実際都会のものには、夜の山登りなんか駄目ですよ。」
「それでも、静子さんはそれは月の晩が好きなんですの。私月を見てると、何だか淋しく悲しくなってきますから……。」
「月を本当に好きな人は、月を見てても淋しく感じない人かも知れません。でも可笑しいですね、静子さんよりあなたの方がずっと快活なのに……。」
「その代り、もう何もかも嫌になって、口もききたくなくなることがありますの。よく静子さんに笑われますけれど……。」
「そう云えば、静子さんくらいいつも調子の変らない人はありませんね。」
 それから話は静子のことに落ちていったが、綾子はふと云い出した。
「あなたのことで私静子さんと議論しましたのよ。」
「え、私のことで……。」
 尋ねられると、彼女は急に黙ってしまったが、とうとう口を開いた。
「失恋して間もなく他の人と結婚するのが、いいか悪いかって……。」
 彼女は真赤な顔をした。彼も何故となく顔が赤らむのを覚えた。
「ああ私の昔のことですか。」
 静子や綾子がそれをどうして知ってるのか意外だった。恐らくその頃の彼の事情をよく知ってる伯母からでも、静子が聞き出してきたのだろう。
「失恋した後で結婚するのはちっとも不思議でないと、静子さんは仰言るのですけれど、向うの人を本当に愛していたら、他の人と結婚なんか出来ない筈だと、私はそう云いましたの。」
「それが本当です。」
「でも、あなたは……。」
「私のは……別ですよ。」
 白々とした額をのべて彼女がじっと覗き込んでくる……そういう感じに彼は変に心乱されて、立上ってそこらをぶらつき初めた。川風が肌に寒かった。
「ヒポコンデリーの獅子が失恋したなんて、可笑しいでしょう。」
「あら私、そんな意味であなたのことを……。」
 彼女が今にも泣き出しそうな渋め顔をしたので、彼は喫驚して打消した。
「分っています。今のは冗談ですよ。」
 彼が無言のままぶらぶら歩いてる間、綾子は同じ所に屈み込んで、しきりに河原の石をかきまわしていた。
「何をしてるんです。」
「水中の夢子さんに、綺麗な石をおみやに持っていって上げるつもりですの。」
 彼はふと涙ぐましい心地になって、一緒に石を拾った。それから仮橋の方を渡って宿に帰った。
 その晩、彼は知らず識らず綾子の面影を心に浮べていた。夢にも彼女のことをみたようだった。
 それから二日たって、洋造は東京へ帰った。汽車の窓から彼は、温泉の方を見えなくなるまで見送った。
「俺は綾子に心を奪われたくない。余りに不自然なことだ。」
 其後、綾子は静子と一緒に彼の家へ一度遊びに来た。
 それだけのことだった。けれど変に忘れられなかった。洋造はそれを自分の最後の清い幻として心の奥にしまい込んだ。余りに奥深くしまい込んでいつしか忘れていった。
 それが、妻とああいう話をした後に、ひょっくり浮び出て来たのである。
「あれくらいのことは、世間にざらにあることだ。それを最後の清い幻だなどとして、いつまでも心の中に懐いているほど、俺の生活は陰欝なのかしら。それほど自分の生活から華かなものを絶って、やたらに子供ばかり拵えていて、それでどうなるのだ。」
 翌朝になると、また前夜の猫が庭の隅にやって来て、一匹の牝猫に四五匹の牡猫がかかって、皆煤けて泥まみれになって、ぎゃあぎゃあ騒いでいた。地面を掠めてくる軽い春風に、そのうす穢い尿の匂いまで交っていた。
 洋造は嫌悪の念に駆られて、自ら竹竿を持って下りていった。夢中になって脹れ上って、打たれてもびくともしないようなやつを、檜葉や躑躅の茂みの下から、竿の先で突っつき出して、隣家の方へ追いやってしまった。額や背中に脂汗をかいた。
 その様子を、空色の洋服に着かえてる冬子が、泣き出しそうな顔で縁側から眺めていた。
「あっちに行っといで。」
 叱りつけておいて、彼は眉をしかめながら戻って来た。
「だって、お父さま、可哀そうだわ。」
「他所の猫じゃないか。」
 まん円くうち開いた眼の中の、青みがかった白目の縁に、ほろりと透明な水玉が出てきて、それをじっと押え止めるかのように、冬子はあくまでも眼を見開いていた。が……大きく一つ瞬きをして、その水玉がはらりとこぼれると、くしゃくしゃな渋め顔になった。と同時に、洋造はそれを胸に抱き上げた。
「泣くんじゃないよ。馬鹿だね。」
 額の汗を掌で拭いて、彼はのそりのそり庭の中を歩き出した。冬子はきょとんとした濡んだ眼付で、彼の肩にしがみついていた。張りきったくりくりした肉付が、何となく甘酸っぱい肌の匂いと共に、彼の胸の中に泌み通ってきた。薄すらとかすんだ生温い朝日の光が、植込の新緑の上に一面に降り注いでいた。
「俺はもう愛とか恋とか、そういったものをいつのまにか失ってしまった。今になって取返しはつかない。夫婦の愛情さえももう味えそうにない。俺の生活はどんよりとしてる。然し……。」
 彼は両腕の中に冬子をとんとんとやって、その円っこいずっしりとした重みを測った。
 女中が冬子を探しに来た。幼稚園へ出かけなければならない時間だった。
「転ばないように大事に連れて行くんだよ。」
 そして彼は妻の方へやって行った。
 八重子は蒼白い顔をなお蒼ざめさして、力尽きたようにがっかりした様子で、それでもきちんと端坐していた。彼の姿を見ると眼を外らした。彼は何気ない風で云ってみた。
「お前はどこか身体でも悪いんじゃないのか。もし何なら、医者に診て貰ったらどうだい。」
「それには及びませんわ。」
「それなら、温泉にでも出かけてみるがいいよ。俺も一二週間保養をしてみたいから、急な用を片付け次第、一緒に行こうよ。よかったら……、」そして彼は一寸唇を歪めた、「戸倉にでも行ってみようか。」
「ええ。」と彼女は上の空で返辞をした。
 彼は急に心の落付きを失って、それから慌しく外出した。
「何ということだろう、俺達は、揃いも揃って子供ばかりほしがってる。これで八重子が妊娠したら、それこそ万々歳だ。」
 変に擽ったいものが腹の底からこみ上げてきて、彼は往来の真中で身体を揺った。
 その日彼は自動車を駆って、お常の家へ不意に昼飯を食いに行った。子供四人共丈夫だった。晩飯はお千代の家へ食いに行った。お千代は大きな臨月の腹をもてあつかって、肩でせいせい息をしていた。
「いつ生れるんだい。」
「もうじきだそうですけれど……。こんどのは大変発育がいいって、お産婆さんもそう云っていますが、何だかいつもよりお腹が大きくて苦しいんですの。」
「二子じゃないのかね。」
「あら、いくら大きいったって……。」
 糸切歯のあたりの金をぴかっとさして笑ったが、その拍子に、眼の縁の薄黒い隈取りが赤くなった。
 餉台のまわりには子供達が、燕の子のように口を並べて、彼がはさんでくれる刺身の切を待っていた。彼が少し悪戯をしだすと、それに皆元気を得て、彼の頭の毛を掴んだり肩に上ったりした。それを彼は順々に並ばして、名前を呼んで返事をさした。
「春子。」
「はい。」と極り悪そうな返事だった。
「二郎。」
「はい。」と大きな威勢のいい声だった。
「五郎。」
「はい。」
「桃子。」
「はい。」
「七郎。」
 返事がなかった。皿のものを手ずから頬張って、眼をくるくるさしていた。
「此奴はずるいね。今に豪い者になるぞ。」
 杯を取上げてぐっと飲んでると、ヒポコンデリーの獅子という言葉をふと思い出した。それに続いて、水中の夢、空中の夢、と口の中で云ってみた。がどれも、無意味な馬鹿げきった響きをしか齎さなかった。
「此奴等も大きくなったら、いろんな馬鹿げたことをやるだろう。が、兎に角、沢山兄弟姉妹があって目出度いわけだ。」
 ふと、眼の中に熱いものがたまってくるのを感じて、鼻をすすりあげたが、それからしきりに杯を重ねた。そして彼は、お千代の大きな腹に眼を据えながら、本当に酔っ払っていった。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1924(大正13)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング