ていった。久しぶりに話がはずんで、自分の著述のことまで吹聴しながら、引止められるままずるずると居据って、夕食の馳走にまで預ってしまった。それから、馴れない四五杯の酒に陶然として、一寸話が途絶えた時、実は夕方早く帰って皆と食事を共にするつもりだったことを、後れ馳せに思い出して、慌しく帰りかけた。
 もうすっかり暮れてしまって、一日の遊歩から帰り後れた人々や、これから華かな巷へ出かけようとしてる人々などで、電車はぎっしり込んでいた。久保田さんはその中に挾って立ちながら、吊革に一寸左手をかけておいて、きらきらとした街路の燈火を、ぼんやり窓の外に見やっていった。そして頭の中では、課外講演といった風の形式ででもよいから、その大研究の片鱗だけでも学生に聞かしてくれないかと、先刻友人から云われた言葉を、得意然と味っていた。
 その時、ふと久保田さんの注意を惹いたものがあった。初めは、甚だ空漠とした芳香みたいなものだったが、それが次第にはっきりとしてきて、一定の形を取って、すぐ前に立ってる人の耳となった。久保田さんは何気なくそれに眼を止めたが、次には一心に見つめ初めた。令嬢風な扮装《いでたち》をした背
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