かな映画や広間にぎっしりつまってる看客などから、変に気圧《けお》される心地がして仕方なかった。馬鹿馬鹿しいと思う心の下から、自暴《やけ》ぎみの反抗心が湧いてきた。何に対してだかは分らないが、なあに俺だって……という気持になった。そしてじっと考え込んだ。
 俺はその時くらい孤独な感じに打たれたことはない。何もかも遠くなって、世界の真中にただ一人投り出された心地だった。弁士が饒舌り立てている、何百人もの人がぎっしりつまっている、表には満員の電車が通っている、慌しい大勢の足音がしている、自動車も走っている……然しそういうものは、みんなこの俺には関係のない他《ほか》の世界だ。俺はただ一人きりだ。この身体とこの生命とだけが俺の世界だ!……そう思ってると、非常に自由な晴々とした気持になっていった。俺は何でも出来そうだった。
 そうだ、何でも! 無一文で正月を迎えることも……金がいるというなら、盗み取ってくることも……笹木に内通していくらか搾り取ってやることも……場合によっては、妻や子供を捨てて一人身になることも……あの神棚を打ち壊してやることも……何だって出来ないとは限らない。みんな寄ってたかって俺をどうしようというのだ? 打ちかかって来るなら来てみろ、俺は笑ってやらあ!
 その時俺は、どんなことを考えたか自分でもよくは知らなかった。けれどただ、俺は非常に自由な力強い気になったのだった。何でも出来る雑多な力が、自分のうちにうごめいてるのを感じたのだった。そして輝かしいような気のする額を、汚い小さな卓子の上に伏せて、長い間我を忘れて考え込んでいた。
 何だかあたりがざわざわするようなので、ふと我に返ると、丁度写真の代り目の休憩時間だった。四五人の者が喫煙所へはいって来た。俺は立上って、喫煙所から出で、活動小屋から外に出てしまった。
 少し可笑しいぞ、と自分で思うくらいに俺は興奮していた。足が軽いし寒い空気が快いし、胸の奥まですーっと風が流れ込むし、ぱっとした街路の光までが物珍らしかった。こいつは猶更可笑しいぞ、と思ってるうちにぼーっとして、いつのまにか自分を取失ったような気持になった。だがやはりまだ晴々としていた。
 それから俺は長い間歩き廻った。そしていつのまにか自分の家の近くまで来ていた。見覚えのある角の荒物屋に気がつくと同時に、誰かに後ろから肩を叩かれた――どっちが先だったか自分でも分らない。俺は振返って見た。池部と谷山とが立っていた。
「今君の家《うち》へ行った所だぜ。」と池部が云った。
「そうか。」と俺は答えた。
「丁度よくぶつかってよかった。だが、いくら呼んでも返辞をしねえなあ酷《ひで》えよ。」
「そうだったのか。」と俺は云った。
「一体朝から何処を歩き廻ってたんだ。」
「何処って当はねえから、ただ歩いてたんだ。」
「ただ歩くって奴があるもんか。」
「歩きでもしなけりゃ仕方ねえからな。」
「そいつあ面白えや。」と谷山は云って、往来の真中で笑い出した。
 大きな図体を揺ってせり上ぐるその笑い声を聞くと、俺は愉快になってきた。
「どっかで一杯やらねえか。」と俺は云い出した。「ただ俺は一文もねえが、君達少しは持ってるだろう。」
「うむ、よかろう。」
 そして三人で、近くの小さな酒場にはいっていった。
 池部は妙に俺の方をじろじろ窺っていた。俺は一寸気に障った。その俺の顔色を察してか、彼はこう尋ねかけてきた。
「君、金の工面はついたのか。」
「つかねえよ。」
「じゃあ一体どうするつもりだい。」
「どうもこうもねえさ。正月は向うからやってくらあね。」
 その時突然に谷山が、本当に困るならどうにかしてやろうと云い出した。沢山は出来ないが四五十のことなら何とかなるかも知れないと……。俺は一寸びくりとした。驚きとも感謝ともつかない、電気にでも触れたような気持だった。それを俺は強いて押えつけて云った。
「大丈夫かね、こう押しつまってるのに……。」
「変梃な云い方をするなよ。まあ明日《あした》まで待て、何とかしてみるから。……そんなに切羽詰ってるんなら、早く俺に相談してくれるとよかったんだ。」
「だが、君はいつもぴいぴいじゃねえか。」
「ぴいぴいだから、またどっかに抜け途もあるってことさ。……大丈夫俺が引受けてやらあ。」
「本当か。……じゃあ頼むぜ。」
 そして俺は、自分の気弱さを自分で叱りながらも、涙ぐんでしまった。それをてれ隠しにする気味もあって、しきりに酒をあおった。
「もう行こうじゃねえか。」と池部はふいに云い出した。「君早く帰ってやるがいいぜ、しきりに待ってたから。」
 俺は先程からの池部の様子で、彼が何か腹に一物あることを気付ていた。それが今の言葉で愈々はっきりしてきた。考えてみれば、笹木のことを一言も云わないのが不思議だった。向うでそうなら、こちらから切り出してやれという気になった。
「君、笹木の話はどうなったんだ?」
「いや……また明日相談しようよ。」
 その逃げ言葉を俺は追いつめてやった。彼は暫く黙り込んで、それから谷山と眼で相図した上で、初めて話しだした。
 ――その日の朝、池部は笹木の所へ寄ってみた。一寸出かけてるとのことだった。それでまた晩に行ってみた。すると小僧が出て来た。笹木は関西の方へ旅に出ていて、正月も松が過ぎてでなければ帰らないとの答えだった。池部は細君に逢いたがった。然し細君も今日は不在だと小僧は答えた。池部は変な気持で帰ってきたが、どう考えても腑に落ちなかった。其処へ谷山が来合せた。二人でいろいろ考え合せてみると、誰か笹木へ内通した者が居るに違いなかった。それで笹木は留守をつかってるに違いなかった。二人は忌々しくなって腹を立てた。もう引っ叩いてでもやらなければ、その腹の虫の納りがつかなかった。然し大勢ではまた手違いを起すかも知れないので、二人でやっつけることにした、而もその晩に……。
「じゃあ何で俺の家へ寄ったんだ?」と俺は尋ねてみた。
「一寸通りがかりに……。」と池部は言葉尻を濁した。
 嘘を云ってるなと俺は思った。お久が何か余計なことを饒舌ったので、それで俺を敬遠しようとしてるのに違いなかった。然しそんなことを詮索してる隙はなかった。こうなったからには俺は後へは引けなかった。一緒に行くことを頑強に主張してやった。池部もしまいには折れて出た。
 俺達が酒場から出て笹木の家へ向った時は、もう十一時を過ぎていた。空に処々雲切れがして、寒い北風が地面を低く吹いていた。俺達は出来るだけ急いだ。三十分ばかりで笹木の家の前まで来た。然しどうして笹木を捕えるかが厄介だった。いきなり踏み込んでいってもし本当に不在ででもあったら、いい恥曝しだった。それかって呼び出す方法もなかった。居るか居ないかを外から確かめるより外はなかった。
 表戸はもうすっかり閉め切ってあった。それに耳をつけて聞いてみたが、中はひっそりとして何の物音もしなかった。その上、長く立聞きをする訳にもゆかなかった。ちらほらとまだ人通りがしていた。困ったなと思ってると、池部が勝手口の路次を見付けた。開扉《ひらき》には締りがしてなかった。俺達は泥坊のようにそっと忍び込んだ。つき当りの勝手許まで辿りついて、其処に身を潜めた。中では何かことことと用をしてるらしかった。それがしいんと静まり返った。人声一つ聞えなかった。俺達は怨めしげに、斜め上の二階を見上げた。その戸の隙間から洩れてる光に、僅かな望みを繋いだ。然しいくら待っても、笹木のらしい人声は聞き取れなかった。もう寝てしまってるのかも知れないし、或は実際居ないのかも知れなかった。どうしたものだろう……と俺達は囁き合った。いつまで待ってればよいのやら、更に見当がつかなかった。しまいに谷山は焦れだして、小さな石を一つ二階の雨戸に投げつけてみた。何の応《いら》えもなかった。身体がぞくぞく冷えきっていった。
 俺達は何度も、表通りへ出てみたり、また裏口へ忍び込んだりした。そのうちに陰鬱な云いようのない気持になってきた。それかって今更すごすご帰ってゆく訳にもいかなかった。底のない淵へずるずる落込んでゆくようなものだった。待てば待つほど、その待ったということに心が縛られていった。そして、無理に心をもぎ離して立去るか、思い切って踏み込んでみるか、その二つの間の距離がじりじりと狭まっていった。俺達は最後にも一度、路次の中に釘付になった。
 その時、全く天の助けだった、家の中にどかどかと足音がして、勝手許の戸が開いたかと思うと、ぱっと光がさした。その光を浴びて出て来た横顔は、意外にも浅井だった。手に下駄を下げていた。続いて笹木の姿が見えた。二人は二三歩踏み出してきた。
 俺達は余りの意外さに面喰った。その驚きからさめると、凡ての事情が一度にはっきりしてきた。もう疑う余地もなかったし、問い訊す必要もなかった。三人同時に飛び出した。向うは棒立ちになった。それから身構えをした。両方で一寸睥み合った。力一杯に気と気で押し合った。そして息が続かなくなった時、俺は真先に笹木へ飛びかかって、拳固で横面を一つ張りつけてやった。笹木はぐたりと倒れた……と俺が思ってるうちに、足にはいてた下駄を掴んで、立ち上りざま俺の頭を狙ってきた。避《よ》ける隙も何もなかった。がーんと頭のしんまで響き渡った。眼がくらくらとした。それからはもう夢中だった。
 殆んど瞬く間だった。俺達三人は、ぼんやりつっ立って顔を見合った。地面には、笹木と浅井とがぶっ倒れて唸っていた。俺達は黙って其処を立去った。不思議なことには、初めから言葉一つ口に出さなかったし、立去る時にも捨台辞《すてぜりふ》一つせず、唾一つひっかけなかった。そして俺達は黙りこくったまま、広い通りを十町余り歩いてきた。その時谷山は、手に握ってた棒切を初めて投げ捨てた。
「どうしたんだ。」
「これで奴等の向う脛をかっ払ってやったんだ。」
 そしてまた四五町行くと、谷山はふいに俺へ言葉をかけた。
「俺は本当に金を工面してくるぜ。」
 俺はその意味が分らないで、彼の顔を見返してやった。そして咄嗟に、酒場での彼の約束は嘘で、此度のは本気であるということが分った。
 俺は笑いたくなった。笑っちゃいけないような気がしたが、一人でに笑いが飛び出してきた。谷山も笑った。池部が眉根をひそめて――何を不快がったのか――俺の方をじろりと見た。が俺は気にしなかった。三人は本当の仲間だということを胸のどん底に感じでいた。
 やがて俺は彼等と別れた。
「明日の晩行くぜ。」と谷山は云った。
「俺も一緒に行く。」と池部は云った。
 俺は一人でぶらりと帰っていった。池部と谷山も、やはり一寸口を利いただけで別れてゆくだろう、考えてみて、また笑いたくなった。思い切って高笑いしてやろうかな、と思っているうちに、頭がぼんやりしてきた。
 家の前まで来ると、何故ともなく前後を透して見て、薄暗い小路に人影もないのを見定めてから、そっと格子を開いた。それからつかつかと上り込んでいった。
 第一に俺の眼についたのは、神棚の明々とした蝋燭の火だった。一寸不快になった所へ、お久が顔色を変えて俺の方を見上げた。
「どうしたんだよ、お前さん、頭から血が流れてるー。」
「えッ!」
 頭に手をやってみると、左の耳の上の方が円く脹れ上って、ねっとりと血がにじんでいた。あれだな……と思うと同時に、ひどく頭が痛んできた。俺は何とも云わずに、そのまま台所へ行って、血を洗って頭を冷した。いい気持だった。
 暫くして俺はまた戻ってきたが、その間お久は、火鉢の側で石のように固くなっていた。そして俺の姿を見ると、いきなり罵り立てた。
「やっぱりそうだったんだ! 私お前さんをそんな人だとは思わなかった。自分でよくも恥しくないんだね。浅間しくないんだね!……私もうお前さんから鐚一文だって貰やしない。ええ貰うもんか、飢《かつ》え死にしたって貰やしない。さぞたんとお金を持ってきたんだろうね。そんなものなんか溝の中へでも棄っちまいなよ。恥知らずにも程がある!……。」
 俺は呆気《あっけ》に
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