神棚
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お久《ひさ》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+昜」、135−下−11]
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霙交りの雨が、ぽつりぽつりと落ちてくる気配だった。俺はふと足を止めて、無関心な顔付で、空を仰いでみた。薄ぼんやりした灰色の低い空から、冷い粒が二つ三つ、頬や鼻のあたりへじかに落ちかかってきて、その感じが、背筋を通って足先まで流れた。
「愈々やってきたな。」
ふふんという気持で俺は呟いたが、その気持がはたと行きづまって、一寸自分でも面喰った。――朝から金の才覚に出かけたが、或る所では断られ、或る所では主人が不在で、初めから大したものでもなかった意気込みまで、何処へか取失ってしまい、その上昼食も食いはぐしてしまってぼんやり歩いてるうちに、いつしか夕方になったのだった。蟇口は相変らず空っぽのままだし、胃袋には一片の食物も残っていないし、外套もつけていない吹き曝しの身に、雪になりそうな雨まで落ちかかってきた。だがそんなことは、まあいいや、明日という日がないじゃなし! と空嘯いてみたものの、さてこれから、どうしよう……ということより寧ろ、何処へ行こうということが、ぴたりと気持を遮ってしまった。このままぼんやり歩き続けて、銘仙の一張羅を雨に濡らしてもつまらないし、それかって一寸訪ねる家もないし、また自分の家へ帰るとすれば、お久《ひさ》の剣突か涙声か、何れ碌なことには出逢わないのだし……はて?
広い通りの十字街だった。満員の電車が幾つも幾つも通り、暖かそうな人顔の覗いてる自動車が駆けぬけ、手に買物の包みを下げてる人々が、嬉しげな気忙しなさに足を早めていた。
「なるほど世の中は忙しいや。呑気なのは俺一人かも知れない。お久の云うのも道理《もっとも》だ。だが、俺には全く何の当もないんだからな。当がないのに急げったって……。」
けれど、そんな風に考えてるうちに、俺は二足三足歩き出していた。ふらふらと我知らず電車道を横ぎると、其処の唐物屋の窓口に、クリスマスの飾物がまだ残っていた。杉の青葉に蜘蛛の糸のような銀糸が張られて、赤い帽子に赤い着物に長靴をつけた白髯の爺さんが、にこにこした顔付で立っていた。俺は長い間それを極めていた。――そうだ、俺にだって今にサンタクロースの爺さんが、素敵な幸福を持って来てくれないとは限らない! その縁起をかつぐわけではないけれど、一寸自分に自分で口実を拵えるためもあって、子供にキューピスさんの人形でも買って家に帰ろうと思った。
雨はもうぱらぱらと、俯向いてても分るくらいに降ってきた。俺は少し急ぎ出した。或る玩具屋の店先で、乏しい蟇口の底をはたいて、五銭もするセルロイドのキューピスさんを四つ買った。毎度[#「毎度」に傍点]ありがとうございますって、人を馬鹿にした空世辞も、満更嬉しくないでもなかった。
電車に飛び乗って、暫くして降りて、曲りくねった小路をつきぬけて、自分の家の門口に立った。耳を澄したがひっそりしている。はてな? と思う心に用捨なく雨が降りかかってくる。俺は思い切って、勢よく格子を開けて中にはいった。
お久が二人の子供を相手にぼんやりしていた。見ると、神棚には明々と蝋燭がともされていた。また例のことが初ったなと思いながら、俺の顔には一人でに苦笑が上ってきた。
「どうだったの?」とお久は上目使いに俺を見上げて尋ねかけた。
俺はそれには答えないで、袂からキューピスさんを二つ取出して、子供達の前に投げ出してやった。子供達は嬉し声を立ててそれを拾い取った。
「まだあるぞ。」
そして俺はまた二つ投り出してやった。
「やあ、おかしな顔をしてる!」
珍らしそうにキューピスさんを弄《いじ》くってる子供達の心より、それを見てる俺の心の方が一層喜んでいた。俺はにこにこ笑いながら、バットに火をつけて吸った。
「じゃあ。出来て……。」
お久は何と感違いしたか、もう顔の相恰をくずしかけていた。がそれも無理はなかった。俺が玩具なんかを買って来ることは滅多になかったのだから。――とは云え、折角萌しかけてきた一家の喜びに、どうきりをつけたらいいものか、俺は少なからず困った。
「出来たんでしょう……私祈ってたから……。」
その最後の言葉がなかったら、俺も何とかして、彼女の希望をもっと長引かしてやったかも知れないが、こうなると、もう待っていられなくなった。
「所が生憎……。」
「え!」
「一文も出来ねえよ。」
見る見るうちに、彼女の顔は変な風に硬ばって、眼の光がぎらぎらしてきた。それが激しい怨み小言の、或は嘆き訴えの、前兆であることを俺は知っていた。で心持ち息をつめて、此度はどちらへ落ちてゆくかと待受けてやった。やがて彼女は云い出した。
「一文も出来ないで、よくまあおめおめ帰って来られたもんだね。今日は岐度まとまった金を拵えて、お前を安心さしてやると云って、出かけたじゃないか。ほんとに意気地なしだね! さあ、今朝の言葉は何処へいったの? お金は何処にあるの?……愚図のくせに、極りが悪いということだけは知ってるとみえて、子供に玩具《おもちゃ》なんか買ってきてさ、その手で私を瞞そうたって、そうはゆかないよ。玩具買うお金があったら、お米でも買ってくりゃあまだ気が利いてるのに……。今頃までほっつき歩いてて、よく手ぶらで帰って来られたもんだね。傘を借りてくる所もないと見えて、雨にまで濡れてさ……。」
なるほど彼女の言葉は、俺の痛い所へ触れていった。着物がしめっぽくなってることや、口実に玩具を買ってきたことや、当もなくぶらついたことなどを、ちゃんと見通したような口の利き方をしていた。けれど、彼女の心に映るのは、ただそんなことだけで、それから一重奥のことは、全く分らないのだ、と思いながら俺は云った。
「なあに、今にサンタクロースの爺さんが、どんな仕合せを持ってきてくれねえとも限らないさ。」
「何を云ってるんだよ、毛唐の爺さんと福の神とを間違えてさ!……またいつもの、お金を拾う夢でもみたんだろう。」
俺は苦笑して何とも答えなかった。湿っぽい一張羅をぬいで、木綿の平素着と代えながら、冗談にまぎらして云った。
「早く飯にしてくれないか。腹が空《す》ききってるんだ、昼飯を食うのを忘れたもんだから。」
「え、昼飯も食べないでいるの!」
同情したのか軽蔑したのか分らない調子だったが――恐らく両方だったろうが――兎に角彼女はすぐに食事にしてくれた。
足のぐらぐらする餉台の上には馬鈴薯《じゃがいも》と大根とのごった煮と冷たい飯とだけだった。それでも空《すき》っ腹には旨かった。これで熱いのをきゅーっと一杯やれたら……とそんな気がしたが、さすがに口へは出せなかった。子供達までが、如何にも旨そうに食っていた。廻らぬ箸の先からこぼれ落ちる飯粒まで、一々拾って食っていた。
「どうだ、旨いか。」と自分でも知らないまに言葉が出た。
「うん。」と答えて信一は、馬鈴薯を頬張りながら眼をくるくるさした。
「みよ[#「みよ」に傍点]はどうだい?」
みよ[#「みよ」に傍点]は何とも答えないで、きょとんと首を斜に動かしてみせた。
「おい、」と俺はお久の方へ向いて云った、「みんな旨そうに食ってるじゃないか。毎日旨く飯が食えりゃあ何もくよくよすることはねえよ。」
お久はじっと眼を伏せていた。何かに心動かされたとみえて、涙ぐんだらしい瞬《めばた》きさえしていた。それでも溜息をつくことを忘れなかった。そして云った。
「せめてね、よいお正月だけでも迎えられるといいんだが……。」
「何を云ってるんだい! よい正月だか悪い正月だか、なってみなけりゃ分らねえさ。」
「そんな呑気なことを云ってるからお前さんは駄目なんだよ。今日を一体幾日だと思ってるの?」
「今日は歳暮《くれ》の二十八日さ。」
「それごらんよ、明後日《あさって》一杯きりじゃないの。」
なるほどそう云えばそうだった。実は先達、質屋から厳重な通知が来ていた。お久の着物二三枚と子供達の晴着三四枚と――俺は枚数をよく覚えてはいないが――それを入質したまんま、もう六ヶ月も利子をためてた所が、来る三十日迄に利子を入れなければ、年末業務整理のため相流し可申候と、わざわざ筆で書き添えた督促状だった。お久に云わすれば、せめて子供達の着物だけでも受け出さなければ、よい正月は迎えられないそうだった。まあそれもいいとして、受け出すべき六十円余りの金の工面が問題だった。その他に俺としては、家賃や諸払や、半分でも入れとかなければ義理の悪い時借《ときがり》など、全部でかれこれ、百五十円ばかりは必要だった。職の方が漸くきまると、早速金の調達に奔走しだしたのだが、「こう押しつまっては……」と、何処も型のように断られた。俺の方では、押しつまったればこそ金がいるんだが、向うでは、押しつまったから金が出せないと云う。必要がさし迫れば迫るほど、益々途が塞ってくるわけだ。どうにも仕方がなかった。けれどまだ、ぎりぎりの瀬戸際までいったわけではない。
「じゃあ、その瀬戸際にいってどうするつもりだよ?」
それが、お久の最後の鉄槌だった。まさか俺だって、其処までいったのにいい加減なことも云えないし、打挫がれて黙り込むより外はなかった。けれど……けれど……やはりまだ瀬戸際まで押しつまったわけではない。
「まあ、明後日までのうちにはどうにかするよ。」
何だか俺は飯もまずくなってしまった。腹が少しばかり出来てきたからではない。変に気が滅入ってきたからだった。なぜ俺はこう貧乏なんだろう! ……電燈の光は妙に薄暗いし、家の中は汚く煤けている。俺は馴れてるから分らないが、初めてはいって来る者があったら岐度、貧乏くさい臭いがしてると思うに違いない。
俺が黙り込むと、お久まで変に黙り込んでしまったし、子供達までがもそもそと、味なさそうな飯の食い方になっていた。こうなっちゃ助からない、と俺は思い初めたが、それが、威勢のいい格子の音で助かった。
やって来たのは池部だった。平素からてきぱきした男だが、その晩は何か昂奮してるらしく、殊に勢いづいていた。
「やあ、飯の最中か。丁度いい所へやって来た。実は君と一杯やろうと思っていたんだ。……お久さん、済まねえが、酒と何か一寸摘むものを、これで一走りしてくれませんか。」
そしてもう蟇口をあけて、五十銭銀貨を二枚取出して、それをちょんと餉台の上にのせた。
お久は暫く彼の顔を見ていたが、その視線の余波でちらと俺の顔を撫でてから、落付き払って云い出した。
「お酒なら、少しくらいは家にありますよ。それに、何もないけれど、※[#「魚+昜」、135−下−11]《するめ》に奈良漬くらいでよかったら……。」
「それだけありゃあ沢山。じゃあまた酒が切れたら願いましょう。」
そして彼はすぐに、五十銭銀貨を蟇口にしまい込んだ。実にはっきりしていた。それが却って俺には心地よかった。ただ少し不承なのはお久のやり口だった。
「酒があるならあると、早く云やあいいのに。実は俺は飲みてえのを我慢してたんだぜ。」
「それごらんよ、飲みたいのを我慢するだけの引け目が自分にあるじゃないか。……私もね、お前さんが美事調えてきてくれたら……と思って取っといたんだけれど……。」
いつも亭主をやりこめることばかり考えてる女だ、と俺は思ったが、人前で云い争うでもないので黙った。その上彼女は、一寸昔の可愛さを思い出させるような、上唇を脹らませる薄ら笑いを浮べていたので、俺も曖昧な笑顔をしてやった。けれど彼女の言葉を、池部は聞きとがめていた。
「何だい、その調えるとか調えないとかいうのは……。まさか、柄にもねえ仲人口を利いてるっていうんでもあるまいし……。」
「なあに、実は金の工面さ。」
「ああなるほど。」そして彼は如何にも腑に落ちたという顔付をした。「実は俺も少しいるんで心当りを探ってみ
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