たんだが、世間は不景気だね。」
「全くだ、世間は不景気だ。」
そして俺達は笑い出してしまった。この場合、世間は不景気だということが、すっかり気に入って嬉しくなったのだった。
酒の燗が出来て、※[#「魚+昜」、136−上−12]が裂かれて、杯を重ねてるうちに、池部は俄に改った調子で尋ねかけてきた。
「時に君の職の方はどうなったい?」
「ああどうにか、深田印刷の方にきまったんだがね、年内はもういくらもねえし、正月は初めのうち休みだてえんで、正月の十五日頃から出てくれと云うんだ。貯金があるじゃあなし、それまでの無駄食いに弱ってるんだ。」
「なあに、そいつあ先が安全だからいいじゃねえか。俺なんか、歳暮《くれ》の臨時雇だから、お先真暗で、心細いったらねえよ。……こうなったのも松尾の奴のお蔭だ。」
池部はじっと俺の顔を覗き込んできた。また何か計画《たくら》んでるんだな、と俺はすぐに感じたが、彼の言葉は意外な方面へ飛んでいった。
「君はあの後笹木に逢ったことがあるか。」
「ねえよ。」
「実はね、笹木の奴が松尾と共謀《ぐる》だったんだぜ。」
「え、笹木が!」
「そうさ。立派な証拠があるんだ。」
「どんな話だい?」
「どんなって、いろいろあるがね、初めの起りは、浅井が笹木の所へ金を借りに行ったことからなんだ。笹木が或る小さな印刷所を――端物《はもの》専門のちっぽけなものだが――その株を買って一人で経営してるっていうのを聞き込んで、ついのこのこ出かけていったものさ。行ってみると、手刷の器械が一二台あるだけで、まるで商売にもならないくらいなものなんだが、云うことが大きいや、ゆくゆくは大規模な印刷会社に仕上げてみせる、そうなったら、君も俺の所で働いてくれってさ。馬鹿にするないって気に浅井はなったそうだが、ちょいちょい言葉尻を考え合せてみると、どうしてなかなか、まんざらの法螺だとも聞き流せねえふしがあるんだ。……がまあそれはそれとして、浅井は少し借りてえときり出したのさ。すると奴《やっこ》さん、澄しこんだ顔付でね、大事な商売の金なんだが、まあ月に七八分も利子を出すんなら、五十円くらい融通してやってもいい、なんかって吐《ぬか》しやがるのさ。馬鹿にしてるじゃねえか。……浅井の奴、ぷりぷり怒りやがって、俺にその話をしてきかせたよ。そして二人で話し合ってるうちに、どうも腑に落ちねえことばかり出てくるんだ。第一笹木が何処からそんな金を手に入れたかが疑問なんだ。彼奴が金なんか持ってたためしはなかったんだからね。なるほど仕事の腕は持ってるが、いつも酒ばかり喰ってたじゃねえか。それに彼奴が僕達を松尾の方へ引張り出した張本人だろう。それにあの時のしゃあしゃあとした態度はどうだ! 誰にだって大体の想像はつかあね。俺は浅井と一緒に手を廻して、内々調べてみたよ。すると確かに、彼奴は松尾と共謀《ぐる》だったらしいんだ。」
不思議にも、俺はそういう話を聞きながら、前に一度自分でも笹木の共謀を想像したことがあったような気がした。或はまた、自分の知ってることを、池部から改めて聞かされてるような気がした。そして俺は別段驚かなかった。一体この事件くらい馬鹿げたものはなかった。事の起りは八月の頃で笹木が俺達の仲間十五人ばかりを松尾に引合わしたのである。松尾は或る富豪から全権を任されたとかで、新らしく印刷所を拵えにかかっていた。給金制度でなしに、純益配分制度とかの、理想的な会社になる筈だった。そして俺達はうまく勧誘されて、その会社にはいることを約束した。勿論その間にはいろんな交渉もあったが、十月の半ばには、俺達は自分の印刷会社から出て、一人前百円ずつ手当とかいう名義の金を貰い、新会社に雇傭の契約を済して、その会社が事業に着手するのを待っていた。或る印刷所を買い取ってすぐに仕事を初めることになっていた。所がいつまで待っても会社は出来上らなかった。笹木が始終俺達の代表となって松尾と交捗していた。するうちに、松尾が突然姿を隠してしまった。富豪から出さした一万に近い金を拐帯したとの噂だった。富豪の方はどうしたか知らないが、俺達の方では実に困った。幾度も寄合っては前後策を講じた。笹木が真先に冷淡な諦めを唱え出した。それに反対する者の方が多数だったけれど、松尾の行方が分らない以上は仕方なかった。皆生活に困る連中ばかりで、いつのまにか散りぢりになって、思い思いの職を求めていった。――俺の方では、その事件の最中に、母に病気されて遂に死なれてしまい、ごたごたしてるうちに、年末に近づいてくるし、漸く深田印刷会社に一月の半ばから出ることになったが、生活の方が行きづまってしまったのだった。
笹木が松尾と共謀していたのだとすれば、俺の憤怒は当然笹木に対して燃え立たなければならない筈だのに、ただぶすぶすといぶるだけで、我ながら可笑しな心地だった。で俺は自分に対する皮肉な微笑を浮べながら、池部に尋ねかけていった。
「だが、そりゃただらしい[#「らしい」に傍点]というだけで、まだ確かな証拠が挙ってやしないじゃねえか。」
「挙ってるとも。素寒貧な笹木に降って湧いたように金が出来るというなあ、何より立派な証拠なんだ。内々調べてみるてえと、彼奴に前から金があったしるしも、誰からか金を引出したらしいしるしも、全くねえんだ。」
「じゃあどうしようというんだ?」
「君だったらどうする?」
池部はあべこべに尋ねかけて、俺の方へじりじりと顔を寄せてきた。もうちゃんと肚をきめていて、俺をその中に引張り込もうとしてるな、ということはよく分ったが、どうせ碌なことじゃあるまいと思って、俺はその押してくる力を平然と堪《こら》えてやった。
「警察に訴えたらどう?」と子供達を寝かしつけてきたお久が、聞きかじりの余計な口を出した。
「なあに訴えた所で、彼奴が尻尾《しっぽ》を出すもんですか。」と池部は空嘯いたが、此度は俺の方へ向いて云い出した。「実は四五人で相談をまとめたんだが、君も一つ賛成してくれないか。こうしようというんだ。あの事件の最後の相談をするということにして、笹木を呼び出しておいて、皆で取っちめてやるのさ、もし白《しら》を切るようだったら、何時から何処にどれだけの貯金があった、誰からいくら引出した、というようなことを調べ上げてやるまでのことだ。ごまかせるものじゃねえよ。そこで皆《みんな》して、彼奴が松尾から手に入れた金を捲き上げてやるか、彼奴をひっ叩《ぱた》いてやるか、まあどっちかだね。万一松尾と共謀《ぐる》でなかったとしたら、男らしく謝罪《あやま》ってさ、打揃って彼奴の印刷所へはいって、一つ立派なものに育てあげようじゃねえか。そうなりゃあ、資本を下してくれる者だって見付かるかも知れねえし……。」
そこまでゆくと、俺も面白くなってきた。池部は俺が乗気なのを見て、また五十銭銀貨を取出して、酒の継ぎ足しをお久に頼んだ。そして皆でなお詳しく相談し合った。お久は金を捲き上げることに最も賛成だったし、池部はひっ叩くことに最も気が向いていたし、俺は立派な印刷所を育て上げることに最も望みをかけた。然し三つの解決なら、結局どっちになっても面白そうだった。ただ、こんなことは正月まで持ち越したくないから、三十日の午後にしたいと池部は主張した。俺は賛成だった。それではこれからまだ廻ってみよう、池部は慌しく立上った。十五人ばかりのうち十人くらいは大丈夫集る、と自信ありげに云い捨てて帰っていった。
所が、池部が居なくなると、俺は何だか力抜けがしたような気持を覚えた。痩せてはいるが変に骨の堅そうな彼の身体つきが、どうしてそれほど俺に影響してくるのか、さっぱり合点がいかなかった。話が余り突然で心になずまないせいもあったろうが、それにしても、彼一人がその話を背負って歩いてるわけでもあるまいし、張りのない自分の心が不思議だった。
「ほんとに酷い奴だね。」とお久はまだ興奮を失わないで云っていた。「あんな奴は、引っ叩くくらいじゃ屁とも思やしないから、金をそっくりふんだくってやるがいいよ。」
俺は[#「 俺は」は底本では「俺は」]苦笑した。
「そうもいかねえさ。……お前だって何だろう。先程、池部が投り出した金を取りもしねえで、わざわざ取って置きの酒を出したじゃねえか。」
「あれとそれとは違うよ。……ほんとに笹木から金を吐き出さしてしまったがいいよ。そうすれば私達だって助かるじゃないか。でもねえ、笹木の方は当にはならないし、家で入用なだけは何とか工面しておくれよ。子供達の着物と正月の仕度とだけは、なくちゃ年が越せないからね。一日二日のうちに、お前さん大丈夫かい。ほんとに悪い時にぶっつかったもんだね。笹木の方はいい加減にして、実際の所、当にはならないからね、家のことだけを一番に考えておくれよ。」
笹木の方は当にならないと云いながら、実は当にしてるんだな、と俺は思った。いつも俺のことを、他愛もない夢ばかりみてると貶しつけておきながら、自分の方では、まだ形態《えたい》も知れない笹木の話に、溺れる者が藁屑をでも掴むように、すぐに希望を投げかけていってるじゃないか……。俺は馬鹿々々しくなって、其処にごろりと寝転んでやった。
「ほんとにお前さん頼むよ。いくら押しつまったって、男の手で百や二百の金が出来ないことがあるもんかね。出来なくっても、私が出来るように祈ってやるよ。祈って祈って祈りぬいてやるよ。命がけで祈ってやるから覚えておいで、……ああ大変、お灯明が消えてる……。」
彼女はまた例の無茶苦茶になりかけていた。いきなり立上って、神棚に蝋燭をつけて、その前に蹲った「天《あま》照る神ひるめの神……」それだけきり俺には聞き取れなかったが、非常に長たらしい訳の分らないことを、声には出さずに口の中で唱えだした。どうして彼女がその長い文句を覚えたかが、何よりも不思議だった。勿論母はいつもそれを唱えていたが、母の生きてる間、彼女は神棚に振向きもしなかったのである。
俺の覚えてる限りでは、母は――と云っても俺には義理の母で、お久の実母だったが――いつも命より神棚の方を大事にしてるかのようだった。毎朝必ず御飯や水を供え、晩には必ず灯明をつけ、月の一日と十五日には御神酒を上げ、いつも青々とした榊を絶やしたことがなく、そして朝晩に長い間礼拝した。そのくせ俺やお久が冷淡にしてるのを別に咎めもせず、却ってそれを喜んでるかとさえ思われるくらいで、誰にも指一本触れることを許さないで、稀代の宝物にでも対するように、自分一人で妬ましそうにその用をしていた。死ぬ時までそうだった。病気で足がふらふらになってからも、神棚の用と便用とへだけは自分で立っていった。もう起き上れなくなってからも、朝晩は必ず寝床の上に坐らせて貰ってお祈りをした。お久に供物をさせる時には、じっとその様子を見守っていた。病気が重《おも》って口も碌に利けなくなると、しきりに手真似で何か相図をしだした。その意味がどうしても分らなかった。彼女はじれだして、ひょいと床の上に坐ってしまった。俺達は喫驚した。無理に寝かしはしたが、それが彼女にとっては最後の打撃だった。仰向にひっくり返って、息を喘ませながら、喉に火の玉でもつかえてるような風に、変梃な口の動かし方をして、しきりに神棚の方を指さした。その手はもう冷たく痙攣《ひきつ》りかけていた。お久が側についていて、頭を水で冷してやり、俺はまた大急ぎで、神棚に灯明を二つもつけ、神酒を上げ、新らしい榊の枝を供えたりしたが、まだ彼女の気に入らないらしかった。彼女の全身は神棚の方へ飛びかかってゆくような勢だった。骨ばかりの汚い手が神棚の方へ震え上り、白目がしつっこく神棚の方へ据えられ忙しない息がはっはっと神棚の方へ吐きかけられた。俺達はすっかり狼狽した。どうしたらいいか迷った。するうちに彼女は漸く静まった。ほっと安心すると、その時彼女はもう冷くなりかかっていた。
彼女が死んで、その葬式を済すまで、いやその後までも、俺達には神棚が不気味で気にかかった。然しどうにも仕様はなかった。神棚を取払ってし
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