まおうかと、俺が冗談に云い出すと、お久は変にぎくりとして、滅相もないという顔付をした「神棚には母の魂が籠ってる」……と口には出さないが、そう思ってるに違いなかったし、俺にも何だかそんな気がしていた。けれど俺の方は、物も供えず払塵《はたき》もかけないで放っておかれる、埃と煤とにまみれたその神棚を、次第に無関心な眼で眺めるようになってきた。何もお化《ばけ》が出るわけじゃなかったのだから。然しお久の方はそういかないらしかった。母の四十九日も済み、ほっと安堵した所へ、母の病気や葬式に金を使い果してしまったし、俺は松尾のことで職を失って収入がないし、年末にはさしかかるし、生活がぐっと行きづまってしまったので、それにひどく気を揉んだらしかった。そして、これは神棚を粗末にした罰だなんかって、馬鹿げきったことを云い出した。俺がいくら云い聞かせたって、母のことが頭の底に絡みついてる彼女には、少しの利目もなかった。俺が云い逆えば逆うほど、彼女は益々強情になっていった。神棚に灯明をつけ榊や水や飯を供え、母と同じように祈りを上げ初めた。一つには、腑甲斐ない俺を励ますつもりもあったろうし、俺に対する面当《つらあて》もあったろうが、その狂言に自分から引っかかっていった。もう立派な病気で、時々その発作を起した。本当に信じてるのではなくて、平素は可なり冷淡だっただけに、猶更仕事が悪かった。
「こいつあ少し手酷しいや。母の生きたお化《ばけ》だ!」
そんな風に俺は考えることもあった。然し冗談ぬきにして、実はだいぶ気にかかった。どうにかしてやらなければいけないと思った。一寸可哀そうな気もした。だが、今にどかっとまとまった金がはいれば、その病気もなおるかも知れない。サンタクロースの爺さんでも、金袋を背負ってやって来ないものかなあ……。
俺はそんなことを空想しながら、褞袍《どてら》にくるまって仰向に寝そべっていた。実は池部と飲んだ酒が変に空っ腹に廻ってだいぶ酔ってるらしかった。木目も分らないほど煤けた天井板が、一枚一枚くっきりとなって、波にでも浮いてるように、ゆらりゆらりと動き出していた。そしていつのまにか、一寸だらしのない話だが、いい気持に居眠ってしまった……。
それからどれくらいたったか知らないが、俺はふと眼を覚した。急に寒気がしてぶるぶると震えた。感冒《かぜ》をひいたかも知れない、しまったな……という気持でむっくり起き上ってみると、驚いたことには、灯明をあかあかとともした神棚の前で、お久がくぐまり込んで、「天照る神ひるめの神……」を初めている。薄汚れのした紡績の着物にはげちょろのメリンスの帯、その肩から腰のあたりへ、ぼんやりした電燈の光を浴びて、縮こめた首筋へ乱れかかってる髪の毛が、気味悪くおののいている。おや!……と俺は思った。その姿形が亡くなった母によく似ていた。ただ、脂ぎってねっとりしてる黒い髪だけが、母のぱさぱさした赤毛と違っていたが、それが却って不気味だった。俺は我知らず立上った……途端に、彼女はじいっと振向いた。その顔が、母の死顔そっくりだ……と思う気持だけでぞっとしたが、何のことだ、やはりお久の顔だった。而も、俺が起き上るのを内々待ち受けていて、それをわざと空呆《そらとぼ》けてる、という顔付だった。その気持が余りまざまざとしてただけに、却って俺の方が落付を失った。
「何をしてるんだ!」と俺は怒鳴った。
彼女はふふんと鼻であしらうような調子で、上唇を脹らませる薄ら笑いを浮べた。俺はつっ立ったまま、彼女をじっと見据えた。足で蹴りつけてやろうか……両腕で抱きしめてやろうか……がどちらもぴったり心にこないので、忌々しさの余りつかつかと歩み寄って、神棚の灯明を吹き消してやった。
「何をするんだよ、罰当り!」
そう彼女は叫んで、俺の足へ武者振りついてきた。それを咄嗟に俺は避《よ》けて、火鉢の側に退却して腰を下した。
「いつまでもそんなことをしてねえで、早く寝っちまえよ。」
「お前さんこそ寝ておしまいよ。……私夜通しでも起きててやるから。……死んだお母さんの気持が、私にはようく分ってる。お前さんなんかに分るもんかね。ほんとに罰当りだ。だから年も越せないじゃないか。」
「越せるか越せないか、まだきまってやしねえよ。」
「きまってるともさ。子供は襤褸《ぼろ》のままだし、松も〆飾りも出来ないで、よく年が越せると云えたもんだね。餅一つ買えないじゃないか。お米を買う金だってもうありゃあしない。私達を飢《かつ》え死《じ》にさせるつもりなら、それでいいよ!」
「米の代も……。」
「あるもんかね。こないだ私が五円拵えてきたばかりで、一文もはいらないじゃないか。私だけならどうだっていいけれど、子供達と……お胎《なか》の子供とはそうはいかないよ。」
「でも、あれは本当に確かなのか。」
「確かだともさ。」
彼女は平然とそう云いきってるが、俺にはまだはっきり信ぜられなかった。二月《ふたつき》見る物を見ないというのも、母の病気や死亡の感動のせいかも知れないし、悪阻《つわり》だってないんだし……と俺は思ったが、悪阻がないことだってある、と彼女は云っていた。そう云えばそうかも知れない、もう出来てもいい時だから……。
「兎に角繁昌だね。」
「何が繁昌だよ、馬鹿馬鹿しい!」
彼女はそう云い捨てて、一寸何か考えてる風だったが、変にくしゃくしゃな渋め顔をして、神棚にまた蝋燭をつけた。そして此度は何と云っても返辞一つしないで、じっと坐っていた。俺は「繁昌」で少し気を取り直していたが、彼女の黙りこくった執拗さにぶつかって、次第に気が滅入ってきた。「仕方がねえから死んじまおう、」と云ったら、すぐにも承知しそうな彼女の姿だった。ここで踏ん張らなければいけない……と思ったために、益々心が切羽詰った所へ落込んでいって、世界が薄暗くなってきた。で俺はお久をそのままに放っといて、子供達を見に行く振で、次の室にはいっていった。子供達は煎餅布団の中に、ぬくぬくと眠っていた。俺は横の布団に着物のままもぐり込んで「繁昌だ……繁昌だ……」とくり返したが、一人でに涙がぼろぼろ落ちてきた。頭から布団を被ったが、淋しくて仕方なかった。そっと手を伸して、みよ[#「みよ」に傍点]の頬辺を撫でてやった。するとみよ[#「みよ」に傍点]はふいに眼を覚して泣き出した。お久がやって来た。俺は寝返りをして、素知らぬ風に息を凝らした。雨の音がしていた。それに耳を澄してるうちに、いつのまにか眠ったらしい。
夜明け方に俺は夢をみた。幾つもみたようだが、ただ一つきり覚えていない。馬鹿に広い綺麗な神棚があって、白藤の花みたいに御幣が一面に垂れてる下で、真裸の子供が幾人も踊っていた。みるみるうちにその踊が激しくなってきて、はては旋風《つむじかぜ》のようにぐるぐる廻り出した。危いなと思ってると、果して一人足をふみ外して落ちてきた。俺はそれを手で受け止めて、また神棚へ投げ上げてやった。後から後から落ちてきた。ゴム毬のようにころころした子供達で、すべすべの餅肌だった。いくら投げ上げても、代る代る落ちてきた。俺はもうすっかり疲れきりながら、いつまでも、落ちてくる子供を手に受けては投げ上げていた……。
しまいにはどうなったか俺は覚えていないが、そのゴム毬のようにころころした餅肌の子供を神棚に投げ上げてる所が、眼覚めて後もはっきり頭に残っていた。何とも云えない忌々しいような嬉しいような、変梃な気持だった。
俺はぼんやり考え込みながら、神棚の方をじっと眺めやった。大根〆も御幣も黒く煤け、閉めきった扉の屋根とには、蜘蛛の巣が破れながら懸っていた。お久は手をつけるのが勿体ないとでも思ってか、母が死んで以来掃除をしたこともなかった。そしてその煤と埃との中に、榊の緑葉とその花立と真鍮の蝋燭立とが、なまなましい色に浮出していた。それを見てると、俺は変に落付かない気持になった。その上お久は、また金の工面のことで俺に訴え初めた。俺は一切のことから逃げ出すような気で、十時頃から外に出かけた。さも当があるような風で、爪を切ったり髯を剃ったりして、また一帳羅の銘仙をひっかけていった。
然し実は、当なんか全然なかった。少しでも融通してくれそうな所は、みな駈け廻ってしまった後だったし、いついつまで返事を待ってくれと云って、暫くでも俺の希望を繋がしてくれる[#「繋がしてくれる」は底本では「繁がしてくれる」]者さえ、一人として残っていなかった。俺はただ一つ処にじっとしていないために、犬も歩けば棒に当るというくらいな気持で、ぶらりぶらり歩いたのだった。もう松や笹を立て並べて、年末の売出や買物に賑ってる街路を、俺は野放しの犬のように、鼻をうそうそさせながら、足の向く方へと歩いていった。人の手前では、まだどうにかなるだろうという、痩我慢の気持になることも出来たが、往来の雑踏のまんなかに、寒い風に吹かれてる一人ぽっちの自分を見出すと、もうどうにも仕方がなかった。昨夜の雨は雪にならずに済んだが、そのため却って道路がぬかってるし、空は薄曇りに曇って、いつまた冷いものが落ちてこないとも分らなかった。せめて外套でもあればまだ気が利いてるけれど……。どうして俺はこう貧乏なんだろう? どうして仕事もないんだろう? どうして世の中に正月なんて区切がついてるんだろう?……つくづく俺は自分の身がなさけなくなった。力一杯に働いていて貧乏するのならまだいい。仕事がなくて食えないほど惨めなことはない。どうして俺はもっと早く仕事を見付けなかったんだろう?……だがまあいいさ、四十九日が過ぎるまで母の喪に籠ったのは、せめてもの仕合せだ。そして正月の十五日からは仕事にありつけるんだ。いくら貧乏したってそれまでの間だ。どうなったって構うものか。歩いてやれ、ぐんぐん歩いてやれ!
俺はどこまでも歩いていった。だが、泥濘《ぬかるみ》の道を足駄で歩いてるので、しまいには疲れてきた。少し休みたいなと思い思い歩いてるうちに、上野公園に出て、動物園があることを思い出した。
動物園の中は、昔来た時とはすっかり模様が変っていた。けれど馴染の象や熊は昔通りだった。俺はぼんやり一廻りしてから、大きな水禽の檻の前に腰を下した。年末のせいか、粗らに見物人があるきりで、ひっそりしてる中に鳥の鳴声だけが冴えていた。俺は鼻糞をほじくりながら、いつまでもじっとしていた。背中がぞくぞく寒かったが、それくらいは仕方なかった。薄曇りの雲越しに、どんよりした太陽がだんだん傾いていった。
そのうちに、身体が冷えると共に空腹を覚えだした。俺は苦笑しながら立上った。動物の餌にする煎餅の五銭の袋を二つ買って、両方の袂へ忍ばせた。その煎餅を体裁に二つ三つ象へ投げやってから、こそこそと動物園を出た。そして公園の木立の影を歩きながら、煎餅をかじった。その自分自身が惨めで仕方なかった。
煎餅をかじったのが、却って腹のためにいけなかった。大急ぎで呑み込んだ固いやつが、空っ腹の底でごそごそしてるような気がした。そして一時間[#「一時間」は底本では「一時問」]ばかりたつと、もり[#「もり」に傍点]を一杯食うために、饂飩屋へ飛び込まずにはいられなかった。
さて、晩になって、俺はまた昨日と同じような破目に陥った。いくら何でも、このまま家へは一寸帰りにくかった。笹木のことで池部が来るかも知れないと思ったが、それももう面倒くさかった。蟇口の底を見ると、まだ三十銭残っていた。お久が今日の運動費に入れてくれたのが、それで全部になるわけだった。何に使ってくれようかと思ってるうちに、ふと小さな活動小屋が眼についたので、本当に財布の底をはたいてその中にはいった。
所が、はいってすぐバットに火をつけてると、白い上っ張りをつけた女がやって来て、あちらで吸って下さいと云った。俺はおとなしくその狭い喫煙所の方へ行った。水のはいったブリキの金盥をのせてる小さな卓子を、粗末な木の腰掛が取巻いていた。俺はそこに腰を下して、卓子に両肱をつきながら、ぼんやり煙草を吹かした。弁士の声や華や
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