とられた。
「何を云っ……。」しまいまで云いきれなかった。
「いくら白ばくれたって、私にはちゃんと分ってるよ。さあ白状しておしまい! お前さんは、池部と谷山に殴られたんだろうが。」
 そこまで聞くと、俺にも漸く分ってきた。俺は苦笑《にがわら》いしながら、反対に尋ねかけてやった。
「お前は池部に何か云ったんだろう?」
「云ったともさ。私お前さんをそんな男だとは知らなかった! 私立派に云ってやったよ、うちの人は笹木に内通するような男じゃないって。……ほんとに私の顔にまで泥をぬってさ、どうしてくれるつもりだよ。」
「まあ待てよ、早合点しちゃいけねえ。」と云いながら俺は其処に坐り込んだ「明日の晩になりゃあ、何もかも分らあね。池部と谷山とが一緒に来ることになってるんだ。谷山は金を工面してきてくれる筈だぜ。」
「え、じゃあどうしたんだよ、一体……。」
 真剣に引き緊ってた彼女の顔が、ぽかんと眼と口とを打開いてくる様は、一寸滑稽だった。俺は笑いながら、大体のことを話してやった。そして池部と谷山とに別れた所まで話すと、彼女は咽び上げて泣き出した。
「泣く奴があるか、馬鹿な!」
 と云ったが、俺も一寸どうしていいか困った。まあ泣くだけ泣かしておけ、という気になって煙草に火をつけた。
 その時俺は、本当に冷水をでも浴びたようにどっと震え上った。何気なく隣りの室を見ると、半分ばかり開いてる襖の間から、斜かいに射しこんでる電燈の光をちょっと受けて、何か人間の形をしたものが、布団の上に坐っていた。じゃ……とよくよく眼を据えてみると、信一が起き上って、寝呆け面《づら》でこちらを見てるのだった。
「何を起きてるんだ、寝っちまえよ。」と俺は怒鳴りつけてやった。
 がその後で、俺はじっとしておれなくなって、その方へ立っていった。信一は布団の中に頭までもぐり込んでいた。俺はそれを行儀よく寝かしてやった。
「いい児だからもう眠るんだよ。明日、好きな物を、何でも、買ってやるからね。」
 そして俺は、彼がもう眠ったろうと思うまで、側について手を握っていてやった。
 俺はそっと立上って、元の所へ戻ってきた。お久はいつのまにか神棚の前に坐り込んで「天《あま》照る神ひるめの神……」を初めていた。まあするままにしておけ、という気になって、俺は火鉢の上に屈み込んだ。頭がずきずき痛んで仕方なかった。その痛みへ彼女の祈りの呟きが調子を合してきた。殊にいけないことには、俺もどうやら神棚の前に坐ってみたい心地になりそうだった。俺はじりじりしてきた。辛棒すればするほど、心が険悪な方へ傾いていった。
「おい、もう止せよ」と俺は堪《たま》らなくなって云った。
 彼女は返辞もしなかった。びくともしないで尻を落付けていた。
「止せったら……止さねえか!」
 俺はいつにない手酷しい調子を浴せかけてやった。じっとしてると、息がつまりそうで額が汗ばんできた。然し彼女はいつまでも止そうとしなかった。俺は立上っていって、その肩を突っついてやった。
「今晩だけは止してくれ。もういいじゃねえか。」
 彼女はぴたりと祈りの文句を途切らしたが、暫くすると、涙声で云い出した。
「いいえ止さないよ。今晩は本気で祈ってるんだから……。今迄いつも気紛れにやってたのが、空恐ろしくなってきた。……お前さんそう思わないの? やっぱり神様が守ってくれたからだよ。よく罰が当らなかったもんだ! 今晩こそ、心から……本気で……祈ってやる、夜明けまで祈ってやる!……お前さんもお祈りよ。」
 彼女はまた訳の分らないことを唱えだした。梃でも動かないほどどっしりと尻を据えて、組み合せた両手を打震わせながら、腹の底から祈りをしているのだった。俺はその後ろに釘付になって、じっと神棚の灯明を眺めやった。眼の中が熱くなってきて、額からじりじり脂汗が流れそうな気持だった。
「止せよ!」と俺は大声に怒鳴りつけてやった。
 然し彼女はびくともしなかった。
「止さなきゃ、神棚を叩き壊してやるぞ!」
 俺の方ももう夢中だった。眼の中に一杯涙が出てきた。そのためになお感情が激してきた。二足三足神棚に近寄った。
「天《あま》照る神も、ひるめの神も、何もかもあるものか。止せったら!……ぶっ壊しちまうぞ!」
 彼女が泰然としてるのを見ると、僕は[#「僕は」はママ]もう我慢出来なかった。いきなり神棚に手をかけた。一寸触るつもりだったのに、案外力がはいって、棚がめりめりといった。榊の花立がひっくり返って、水がさっと頭にかかってきた。もうどうにも踏み止まれなかった。俺は歯をくいしばり眼から涙をこぼしながら、ひきつった両手で棚の上の箱に掴みかかって、それをあらん限りの力で傍の壁の柱へ投げつけてやった。
「あッ!」とお久が叫ぶと同時に、異様な物音がした。もうっと埃の舞い立つ中に、きらきらした光が四方へ乱れ飛んだ。数知れない五十銭銀貨が落ち散っていた。
 俺は息をつめて立ち竦んだ。母の顔が眼の前にぽかりと浮出してきた。本当に神をでも涜したような恐ろしさを覚えた。いきなり屈み込んで、何を書いたものがありはすまいかと探した。がそれらしいものは何にもなくて、沢山の護符《ごふう》と宝珠玉《ほうしゅのたま》の瀬戸の破片とばかりだった。俺は半ば壊れた箱の中から、そんなものを掴み捨てながら、打震える涙声で云った。
「早く拾ってしまえよ。」
 そして、まだ大形の五十銭銀貨が底の方に少し残ってるその神箱を、お久と自分との間に据えた。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新潮」
   1923(大正12)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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