ると、一人の来客があった。洋服を着た五十年配の肥った男で、頭髪を短く刈りこんでいて、小会社の重役かなんかのように見えた。面白くない奴とはこの客だな、と私はとっさに感じた。そしてなんだか議論の中途らしい空気だった。
 その客は、市木さんの亡妻の縁故者で、土居というひとだった。市木さんは私に杯をさしながら、ぶっきら棒に言った。
「土居さんはね、わたしが、弘子の葬式もりっぱにせず、ぞんざいに扱ったと、疑っておられるようです。あなたからひとつそうでないことを証明してやって下さい。」
 市木さんはもう喧嘩腰だった。私は酒の相手に招かれたのではなく、実は証人として呼びつけられたもののようだった。
 土居さんは鼈甲縁の眼鏡の奥から眼玉を光らせながら、落着いた調子で弁明した。
「いや、葬式がどうこうというのではありませんよ。そりゃあ、あなたの娘さんだから、どういう葬式をなさろうと、あなたの自由です。けれども、先程から何度も申したように、亡くなられた当時、わたくし共へも、それからまたほかへも、一応は通知して頂くのが、世間の儀礼というものではありますまいか。そして仏さまにもお別れをさせ、葬儀にも立ち会わせる、それがつまりは、仏さまへの供養ともなり、御近所の方々への義理を立てることにもなるのです。あなたのお話を承っておりますと、ただ御近所の方々に任せっきりで、わたくし共はまるで無視されたとしか思えません。そういう御料見ならば、それでも結構、わたくし共でもそういう料見をすえましょう。然し、弘子さんは可哀そうでした。どこへも、後になってからしか知らせなさらなかったのですね。縁故の者で、葬儀に立ち会った者は一人もなかったのですね。わたくしはちょっと旅行していまして、帰って来ると通知状が来ていました。しかも、十日も過ぎてからの、謂わば一片の報告にすぎません。家内はふだん御交際がなかったものですから、思い惑っていました。わたくしは外の用事を差し置いて、駆けつけて来たのですが、もう遺骨もない始末じゃありませんか。そりゃあ、あなたの無信仰は、あなたなりの主義がおありのことでしょうし、わたくしから異議は申しません。然し、弘子さんの亡骸にお別れする機会ぐらいは、わたくし共にも与えて下さるのが、当然のことではありますまいか。」
 土居さんは言い終えて、杯をあおった。先程から断片的に抗議したことを、私にも聞かせるため、一纒めに要約したらしかった。
 市木さんは顔色ひとつ動かさなかった。煙草をふかしながら、杯を取り上げたりしていたが、ぽつりと言った。
「弘子の死体にせよ、火葬後の遺骨にせよ、それは弘子とは別物ですからな。」
 土居さんは呆気にとられたようだった。それから急に、頬を紅潮さした。
「それでは、あなたは、弘子さんとその亡骸や遺骨は別物だと、本気で仰言るんですね。ひとは死んでしまえば、その死体は当人とは別物だと仰言るんですね。よく分りました。そういうお考えでしたら、不吉なことを申すようですが、あなたが万一お亡くなりになった際にも、あなたとあなたの亡骸とは別物だと、そういう取扱いをしても、一向差支えありませんね。」
「それは結構です。わたしに無関係なことですからな。」
 まるで歯が立たない感じだった。それきり言葉が途切れた。いつぞや、市木さんが猫の死骸を庭の隅に埋めたことを、私は思い起した。市木さんが冗談を言ってるのだとは思えなかった。
 市木さんは長火鉢の銅壺で酒の燗をし、その銚子を次々に三人の前へ並べた。もう酌をしてくれなかったから、私たちは手酌で飲んだ。肴としては、すずめ焼と蒲鉾と海苔が出ていた。
 長い沈黙の後に、土居さんはふと気付いたらしく、食卓の上を見渡して話題を変えた。今後のことについてである。
 弘子はまだ女学校の生徒だったとはいえ、女のことだから、家事の手伝いなどにはだいぶ役立った筈だ。それが亡くなったからには、今後のことも考えなければなるまい。市木さんはもう再婚は無理だとしても、女中でもおいたらどうだろうか。そういうことを土居さんは言った。自分たちがついているのに、近所の人たちの手前もあるし……ということを強調した。
 市木さんの返事は、ただ、一切構わないで貰いたいという一事に尽きた。
 土居さんはまた憤慨しかけた。
「構わないでくれと、あなたはいつも仰言るが、それでは世間に通用しませんよ。弘子さんの葬式にしたって、ずいぶん、御近所の方々の世話におなりなすったでしょう。もう昔のことですが、奥さんが亡くなられた後、わたくしは何度も再婚をお勧めしましたが、あの時も、構わないでくれの一点張り……。こんどもまたそうです。年とったあなたと小さなお子さんと、二人きりで、これからどうして暮してゆくおつもりですか。」
「それは、わたしの手一つでやれます。」
「ふ
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