猫の死体を、市木さんは庭の片隅に埋めた。
それが、当分の間、私は薄気味わるくて、市木さんの庭へ行くことをやめた。
猫や犬の死体を葬ってくれる寺がある筈なのに、市木さんはなぜ庭の隅に猫の死体を埋めたのだろう。まさか埋葬料を倹約したわけではなかったろう。
というのは、私の妻がへんな噂を聞き込んで来たのである。市木さんの家には、黄金の延棒が秘蔵されているというのだった。
市木さんはいつもみすぼらしい身扮をしていたし、子供たちも実に粗末な服装をしていたし、生活も至って質素だったのに、金の延棒があるという噂が、まことしやかに伝えられたということには、何か意味があるようだった。近所のお上さんたちの間だけの他愛もない噂だったが、実状にふさわしくないその噂が、何の矛盾もなく、受け容れられていたのである。
二
或る年の春さき市木さんの娘の弘子さんが病死した。あまり突然のことなので、伝え聞いた人々も面喰った。
三日ばかり寝ついたきりだったとか。初めは感冒のようだったが、高熱が出て、物を呑み下すのが困難になり、次で呼吸も困難になった。医者が呼び迎えられた時は、もう、喉の粘膜に白い義膜が厚く拡がり、心臓も弱っていた。注射や其他の手当も効目がなかった。悪性のジフテリアで、弘子さんほどの年齢には珍らしいことだった。
近所の住人はたいてい、戦争中から戦後にかけて入れ替っていて、以前の隣組制度の誼みもなく、市木さんの方でも近所づきあいを一切しなかったが、然し、市木さんの家の不幸に対して素知らぬ顔も出来なかった。代表格で数人のひとが世話をやき、それから私が最も立ち働いた。
市木さんは泰然自若としてる風に見えた。そして何事も自己流で押し切った。表に忌中の簾を出すことを承知しなかった。弘子の死去を広告するには及ばないと言った。僧侶も神官も呼ばなかった。ただ霊前に線香は立てた。葬儀屋が持ってきた位牌に、自分で筆を執って、市木弘子霊位と書いた。それから花屋に出かけてゆき、色とりどりの美しい生花を一対買った。が他人からの供物は一切断って、押し返した。香奠の包みはとにかく、線香とか菓子とかいう物品は、本人に持ち帰って貰うわけにはゆかず、私が大骨を折って説得し、それだけは納めさせた。火葬場へは自分一人が行けば充分だと言い、漸く私だけ同行を許された。つまり、凡てが出来る限り簡単に明確に取り行われた。
それが済むと、深閑とした日々が市木さんに続いたようだった。そして十日ばかりたって、例の竹垣を跨いで私が行ってみると、市木さんは座敷の床の間を指し示した。そこの小机の上の、位牌と線香立とのわきに、香奠の包みが二つ置いてあった。故人の女学校の担任の先生からのものと、級友たちからのものだった。
「どうも、多勢には一人ではかないませんな。」
そう言って市木さんは眼玉をぐるりと動かした。先生や生徒たちと応対してる市木さんのことを想像すると、私はなんだか可笑しかった。市木さんは当初、死亡通知など一切出さないと言っていたが、其後思い直して、学校へは通知し、なお数名の親戚知友へ通知状を出したと、弁解するように打ち明けた。
「つまり、死亡通知を出すことによって、故人をすっかりわたし一人のものにすることが出来ると、分ってきたからです。」
その論理は私にはよく呑みこめなかったが、市木さんが故人のことを深く思いつめてることは、はっきり感ぜられた。
市木さんは故人の写真をどこにも飾らなかったが、その面影は私の頭にも残っていた。背は高い方で、痩せていて、学校から帰るとたいてい和服に着換えていた。あちこち継のあたってる銘仙の着物で、早く亡くなった母親の遺物なのであろうか、黒っぽいじみな柄であって、それに枇杷色の兵児帯をしめていた。髪は子供っぽく編んで背中に垂らしていた。少し出額の細面の顔立だったが、それがいつも没表情で、なんだか能面みたいに見えた。泣くことも笑うこともなさそうだった。しかも、表情のない能面みたいなその顔が、へんになまなましく、時によっては、はっとさせられるような感銘を与えた。
そういう面影を、市木さんはどういう風に受け取っていたのであろうか。死亡通知を出すことによって故人をすっかり自分のものにするとは、どういう意味だったろう。
ところで、その死亡通知のために、私は妙な場面に立ち会わされたのである。
或る日の午後、市木さんは竹垣を跨いでやって来て、珍らしいことには私へ声をかけた。出ていってみると、市木さんは縁側近くに突っ立っていた。
「ちょっと来て下さい。そして酒を一杯つき合って下さい。どうも面白くない奴が来ましてね、酒がまずくなった。」
市木さんは昼間から独酌してることも稀ではなかったが、私がその席へ招かれたのは初めてだった。ところが、行ってみ
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング