絶縁体
豊島与志雄
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一
市木さんといえば、近所の人たちはたいてい知っていた。それも、近所づきあいをするとか、気軽に話しかけるとか、いうのではなかった。また、市木さんが世間的に有名だからでもなかった。往来で出逢って、会釈し合うこともなかった。だが、市木さんという名前がもちだされると、人々の間に、微笑めいた眼色や、好奇らしい眼色が、自然にかもし出された。というのは、市木さんは頭が少し変だ、というほどではなくとも、少くとも変人だと思われていたのである。だから、市木さんが知られていたのは、その名前と顔だけだと言ってもよく、また、成年の男たちよりも、女や子供たちに多く知られていた。
市木さんは世間的に有名などころか、いったいどういう職業のひとか、誰も知らなかった。それももっともで、何の職業も持っていなかったのである。家にとじこもってることが多かったが、家の中で何をしているのか、誰にも分らなかった。来客も殆んどなかった。その家は古めかしく、建附なども定めしがたぴししてることだろうと思われたし、板塀は所々破損していた。雨ざらしの門柱に、市木正信というまずい字の表札が出ていたが、たぶん本人の自筆であったろう。それも風雨に黒ずんでいた。そしてこの正信という名の方は誰の頭にも留まらず、ただ市木さんというだけで知られていた。
市木さんはもう六十歳近い年配だと見えるのだったが、そのわりには幼い一男一女があった。男の子は小学校に通っており、女の子は女学校に通っていた。どちらも粗末な服装で、肱のあたりに四角な布が無造作に縫いつけてあったりした。市木さん自身で修繕してやったものらしかった。三人きりの家族で、妻も女中もいなかった。
日用品や食物の買い出しに、市木さんは自分で出かけた。だがその様子は、用事があって外出してるのだとは見えないし、散歩をしてるのとも違い、ただ飄々と歩いてるとしか思えなかった。
額は少し禿げ上っていたが、半白の頭髪は濃く長く、頸筋にそよいでいて、いつも無帽だった。大柄な眼鼻立ちで、頬の肉附きはよく、髯はなかった。夏はシャツ一枚、他の季節には褐色のジャンパーを着、冬には黒いオーバーをひっかけ、いつも短いズボンに下駄ばきだった。出かけるのは晴れた日に限っていて、雨降りにその姿を見かける者はなかった。
そしてたいてい、竹編みの大きな籠を、長い紐で肩からぶらさげていた。その籠の中に、たいてい、スケッチブックを入れていた。それからたいてい、太い杖か一管の尺八を持っていた。竹籠は買物のためであって、いろいろな品物でふくらんでることがあった。スケッチブックはめったに使われることがなかったが、なにか興趣ひかれる事物に出逢った場合のための用意だったろう。それから、杖はよいとして、尺八に至っては誰にも合点いかなかった。然し、近隣の人々は、深夜、嚠喨たる尺八の音を度々聞かされていたし、たぶん、手馴れてるままに彼はそれを携えていたのであろう。
そのような姿で、市木さんは飄々乎と歩いていた。近所の人々に出逢っても、会釈もせず、振り向きもしなかった。人々の方でも、微妙な気持ちから、なんとなく素知らぬ風を装うのだった。市木さんはいつも真正面を向いていて、左右に眼を配ることなく、後ろを振り返ることがなかった。周囲に全然無関心のようだった。
幅の広い街路などには、子供たちが集まって騒いでることがあった。そういう所も、市木さんはすーっと、然しゆっくりと、真直に通りすぎていった。子供たちはへんに静まって、市木さんの後ろ姿を見送り、それからまた騒々しい遊びを始めるのだった。
市木さんは頑丈そうな体躯だったが、力もたいへん強いとの噂があった。柔道にも熟達してるとの噂があった。噂の出所は明かでなく、また真偽のほども不明だった。けれども、その噂は如何にも真実らしく感ぜられたし、それも一因となって、女や子供たちから敬遠される風だった。
或る秋の颱風後、倒れた板塀を市木さんが独力で立て直してるのを、二人のお上さんが見た。前日から颱風警報が出ていたが、夜になって風雨が強まり、夜半には可なりの暴風雨となり、翌朝はまだ風はあったがからりと晴れていた。颱風がすぐ近くを通過したわけではなく、被害も大したものではなかったが、それでも、街路には木片や生々しい木の枝葉が散らばり、古い板塀などは所々に傾いたり倒れたりしていた。市木さんの板塀もずいぶん古いもので、門柱のわきが傾き、その先が二間ばかり倒れていた。それを市木さんは一人
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