で立て直していた。
 倒れてる塀の頭を両手で持ち上げ、徐々に押し起して、用意しておいた丸太ん棒で左右二ヶ所の支えをし、なお押し起して、少し傾きかげんのところで支えをしてしまう。塀の支柱は一度修理されていてまだ丈夫なので、その根本を地面に埋めて塀を真直に直す。それからあちこちに、細長い厚板を横ざまに打ち付けて、塀を強固にするのである。初めの、塀を押し起すところが、危険でもあり力がいる。一人でそんなことをやってる市木さんを、通りがかりのお上さんが、二人も見た。どう見ても、市木さんは強力な人に違いなかった。
 けれども、市木さんはいつも取り澄していて、或は無関心であって、怖い人だという印象を与えたことはなかった。強いて言えば、ただいくらか薄気味わるい人だったのである。笑うこともなければ、怒ることもなかった。
 それでも、市木さんがほんとに怒ったらしいのを、私は一度見た。
 市木さんと隔意なく話をし交際したのは、近所で私一人だった。そうなったのも、実は、妙な機縁からであった。
 私は市木さんの裏手の家に住んでいた。市木さんの前の道が直角に折れ曲ってるその道から、狭い路地があって、路地の突き当りに、私の家がある。小さな平家だが、わりにゆったりした庭がついている。庭は板塀ぐらいの高さの竹垣で仕切られていて、その竹垣の先に市木さんの二階家があった。つまり、市木さんの家の裏手と、私の家の横手の庭とが、隣り合せになっていた。市木さんはその家の所有者で、私の家は借家だった。
 両者の間の竹垣は、朽ちはててぼろぼろになっていたが、それが、やはりあの颱風のために、半ば壊れてしまった。市木さんは表の坂塀は修理したが、裏の竹垣はもう修理のきかない状態であった。そしてその竹垣は、市木さんの家に所属するものだった。
 いったい、家と家との間にある板塀とか竹垣とかいうものは、妙なことだが、両方に共有のものではなく、どちらか一方に所属するものらしい。そちらが先に作ったからか、或は境界の一線の内側にあるからであろう。
 私の家の庭先にある竹垣は、市木さんのものだったから、壊れたからとて私がうっかり手をつけるわけにはゆかなかった。市木さんの方でも放りっぱなしだった。そして三日ばかりたってから、市木さんはその竹垣をすっかり取り壊してしまった。いよいよ作り替えるのだな、と私は思ったが、そうではなかった。
 竹垣を取り払ってから、市木さんは私の庭へはいって来た。
「ちょっと、お宅の囲いを見せて頂きますよ。」
 そう断っておいてから、市木さんは私の家をぐるりと一廻りして、あちこち検分した。
「お宅の囲いは、どこも壊れてるところはない。これなら大丈夫です。」
 言い捨てて帰っていった。
 私は呆気にとられた。市木さんは私の家の家主でもないのに、板塀やトタン塀などを検分して廻るとは、全く余計なお世話なのだ。もし壊れてるところがあるとすれば、どうしてくれるつもりなのだろう。あの表の塀と同じように、修理してくれるつもりだろうか。
 だが、そうでもなさそうだった。というのは、竹垣を取り払ったあとは、そのままになっていたのである。植木屋にでも頼んで新たに作らせるつもりなのが、その職人の都合で延び延びになってるのかと、私は思ったけれど、そうではなかった。幾日待っても、竹垣は作られなかった。
 そのため、私の方は困った状態に置かれた。市木さんの家と私の家とは素通しになってしまったのである。市木さんの方では、私の方に面してるのは裏口で、そこの木戸はいつも閉め切ってあり、片方は狭い庭の横手で、檜葉や八手の植込みがあり、私の方から覗いても一向差支えない様子だった。だが私の方は、先方が庭の正面になっており、庭のこちらは縁側で、障子を開け放せば、座敷の中まで先方からまる見えになる。しかも、こちらは平家で先方は二階家なのだ。どうにかしなければなるまい、と私は考えた。
 考えてるうちに、ふと思い当ることがあった。板塀とか竹垣とかいうものは、それが無くては都合がわるい方で作るべきなのかも知れない。往来に面してる場合ばかりでなく、家と家との間でもそうなのだろう。そして、市木さんが私の家の囲いを見て廻ったのも、或は、あの竹垣の作成を私の方へ譲るという謎だったのかも知れない。いっそのこと、市木さんに直接話してみるのが、早道だった。
 折を見て私は、八手の茂みをくぐって市木さんの庭へ行き、そこの縁側から声をかけてみた。室内から返事があって、暫く待つと、市木さんが出て来た。硝子戸を開けて、市木さんがそこに座布団を出したから、私は腰を掛けた。縁側には陽が当っていた。
 さて、どういう風に話しだしてよいものか、私はちと弱った。市木さんが変人だということを聞いていたし、額が少し禿げ上ってる大柄な顔立ちと、肩まで垂れさがっ
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