達の心に堯の死の場面がはっきりと映じた。
 俥はまだ来なかった。私は外に出てみた。薄暗い寝静まった通りを透して見ると、向うに俥屋の提灯の火が見えた。
「来ましたか。」
「ああ今すぐ。」
 芳子は又私の手につかまった。
「坊やのことをね。堯をね。」
 私は返事の代りに、彼女を緊と抱いてやった。
 すぐに俥屋が来た。「S町まで、」と私は云って芳子を連れ出した。
 俥屋の一人は私達の姿をじっと透し見た。
「おや、奥様でございましたか。」
「あ、Yさんですか。」
 一人は私達をかねて知ってる俥屋の主人Yであった。彼は、私達の親戚の家や産婆のIさんの家も知っていた。好都合だった。でその主人に産婆の家へ行って貰うことにした。芳子は若い衆の方の俥に乗った。そして黙って私の前に頭を下げた。
 私は外に立って、右と左とへ別れて馳せ去ってゆく二台の俥を見送った。それから玄関の扉をしめた。病室に帰ると看護婦に玄関の締りをして来て貰った。
 私は一人で堯の枕頭に坐った。それからじっと眼をつぶった。
 芳子の方のことは心配はなかった。前からすっかりは仕度調っていた。家にはS子さんと常とが居た。Iさんもいつも私の
前へ 次へ
全40ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング