はなかった。そして私はうとうとした。
 ふと眼を開くと、芳子は小さな机にもたれてじっと坐っていた。極度に緊張した表情をしていた。
「いけないのか。」
「ええ、そうらしいわ。」
 芳子は便所に行った。
「やはりそうらしいわ。」
「ではすぐに帰るがいいよ。」
「ええ。」そして芳子は室の隅をじっと見つめた。
 寝て居た看護婦を私は起した。
 看護婦は起きて行って、電話室へはいった。私も後からついて行った。もう一時になっていた。俥屋は中々起きなかった。それでも漸く起き上った。至急俥を二台頼んだ。
 芳子は既に軽い陣痛を覚えていた。堯の額に唇をつけた。堯は眠っているらしかった。或は覚めて居たのかも知れない。
 私は芳子の腕を取った。寝静まった病院の階段を私達は一段々々と下りた。看護婦が玄関の扉を開いてくれた。私は彼女をすぐに病室の方へ返した。
 雨は霽れていた。外は真暗な闇が深く澄み切っていた。玄関に私の腕にもたれて立ちながら、芳子は私の手を緊と握りしめた。
「坊やのことをね、坊やのことをね、お頼みしますよ。」と芳子は云った。
「ああ大丈夫。」
「しっかと手を握ってやっていて下さい、ね。」
 私
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