。私に似て呼吸器も弱かった。がS氏の手当に依ってどうかこうか生命を取り留めた。S氏は大学の研究所の方の忙しい仕事の合間にいつも私の家を見舞ってくれた。病気が軽くなると、芳子は堯をだいて常を連れて、大学のS氏の許へ通った。そして今年の五月頃からはもう時々しか薬も取らなくていいようになった。粥をすすって魚肉を食べるようになった。百日咳以来約一年間に及ぶ病気に衰弱し切った身体も、少しずつ恢復してゆくようだった。私達は一年間の心労からほっと息をついた。
「よくもったものだ」とふり返って考えた。そしてその頃からT式抵抗療法の方のKという女の人に毎日私の家へ来て貰って、十分か十五分ずつ腹を揉んで腸の働きを活気づけて貰った。八月末からは、K氏にも三日に一度位来て貰えばいいようになった。九月なかばからは一週に一度になった。
 堯は少しずつ、ほんの少しずつ、一年間の衰弱から脱して肥っていった。もう他人の手をからないでも、自分一人で生長してゆけるようになった。時々便の加減が悪かったり熱が出たりしたが、それもすぐに癒った。物につかまって歩けるようになった。そして頭の方も著しい発達をして来た。何でもよく分って
前へ 次へ
全40ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング