胃腸の薬は絶えず取らなければならないでしょうが、然し、ほんとに胃腸に病気が出たとすると……。」
「駄目なものでしょうか。」
「そうですね……然し……。」
 言葉では何にも云えなかった。うち破れない黒い壁が前にあった。じりじりとその壁に向って進んでゆく外に、もう後ろをふり返れなかった。
「それにまた……。」
 と羽島さんは何やら云いかけたが、その時表の方に「御免!」という声が聞えた。そしてまた再び高くくり返された。
 羽島さんは立ち上った。
「いや……それではどうか医者の方をお頼みします。それに依ってまた……。」
 壮助はじっと其処《そこ》に残っていた。表の方からは「鉛筆と紙を」という年若い青年の声が響いた。羽島さんが鉛筆の入った箱を出しているらしい音も聞えた。それは一家を支える僅かな商売だった。
 羽島さん一家は、反対に田舎から都会に逐われて来た人達だった。社会の急激な変化と田舎に於ける収入の困難とは、そして特に地価と金利との急激な高低は、多くの地方人を都会のうちに逐い込んだ。其処には面倒な気兼ねや体面が無かった代りに、更に激しい生活の競争と底の知れない暗闇とが彼等を待っていた。羽島さ
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