らまだいくらも飲まれてはいなかった。
病室では凡てが静かに動いていた。そしてその静かな動作や言葉のうちに病人の軽い気息《いき》が纒わっていた。然しともすると看護婦の直線的な動作が、物馴れた無遠慮なやり方が、その雰囲気を乱し勝ちであった。それがいつも壮助を不快ならめた。然し病人の手当のうちには彼の覗き得ない別な世界があった。彼は手を拱《こまね》いてただ傍《そば》から見ているより外はなかった。
座を立って次の室に来ると、羽島さん(光子の父)は水滸伝を読んでいた。傍の本箱には、八犬伝や西遊記や春秋左氏伝やそういう種類の和漢の書物がつまっていた。
「如何です?」と彼は眼鏡を外して壮助の顔を窺った。
「少しはいいようですが……。」
「そうですか。……何時も見舞って下すってお差支えではありませんか。」
「なに私の方はいいんです。」
「いや出勤のお身体だからそうお隙でもありますまい。然しあなたが暫くお出でにならないと病人が大変淋しがるものですから。」
羽島さんはその時何やら少し小首を傾けて考えていたが、「一寸《ちょっと》」と云って自分から先に立ち上った。
居間のすぐ横に台所と並んで薄暗い三畳
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