の解放とか、思いつくままを呟いた。
「駄目です。」と秦は遮った。
 彼は保甲青年団にも少し働きかけてみた。思わしくなかった。それから故郷のことに思いを馳せた。支那全土の耕地の三パーセントを占むると言われる墓地、到る所に見られる墓地のことが、新たな意味で頭に浮んだ。それから、天災や戦乱で流離常ならぬ農民のことが、新たに頭に浮んだ。
「土地です、土地に対する愛着です、大切なものは……。」と彼は星野に言った。
「多くの人がそれによって生きてる日本では、あなたには却って理解しにくいでしょう。」
「いや、分るよ、よく分る……。」
 だが、星野の言葉は空虚な響きを帯びていた。
「私は旧弊なことを考えたものです。」
 そう言って秦は笑った。星野の胸にその笑いが、鋭いものを伝えた。
 賑かな大通りに出ると、張は三輪車を三台つかまえた。星野は秦の横に乗せられた。頭も身体もふらふらしていた。[#「ふらふらしていた。」は底本では「ふらふらしていた」]
 静安寺路の奥まったダンスホールに一同ははいった。特別な待遇を受けたらしかった。強烈な酒が出された。
 音楽は拙劣だったし、妙に客も少くて淋しかったが、いつのまにかじみな衣裳のダンサーが大勢、同席に来ていた。秦は巧みに踊った。星野も少しく踊った。
 星野は急に意識がぼやけてきた。時の経つのが分らなくなった。何もかも忘れかけた。
 皆が立ち上る気配に、星野も立ち上った。へんに騒々しい静けさを感じた。路地に出た。外は暗かった。
 ここまで付き添ってきていた二人の青年が、突然駈けだした。叫声が起った。秦の姿は見えなかった。星野は衝動的に街路へ走った。眼が覚めた感じだった。
 淡い明るみの中に、人立ちがあった。数名の者が走っていた。人立ちのなかに張浩が地面に倒れていた。横腹から血が流れ出していて、身動きもしなかった。
 星野は秦を見出した。昂然……という感じでつっ立っていた。その腕を掴むと、彼は振り向いた。
「送らせますから、すぐお帰り下さい。」
 返答の余地をも与えぬほど厳とした言葉だった。先刻の青年の一人が三輪車を走らして来た。星野は青年と並んでそれに乗った。車夫は何等の好奇心も興味もないもののように、ペダルを踏んだ。

 星野はそれきり、秦啓源には逢えずに、日本へ帰った。迂濶にも秦の居所を聞いておかなかったのである。然し尋ねたとて秦は恐らく教
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