るのだが、今では皆、精気に溢れた朗かな表情をしている。青年たちはその農場を自分等の土地と感じ、もう台湾に帰る気持ちもない。娘たちは農場の仕事を楽しみ、喜んでそこに通勤している。
「彼等の表情を、あなたは見ましたか。」
「いや、知らなかった。」
「それでは、是非一度は見ておいでなさい。」
話がそこでへんに途切れた。なにか言葉に気が乗らなくなった。
その料亭を出て、四辻に来た時、秦はふいに立止った。淡い星影がちらほら浮んでいる夜空を仰いで、そこに佇んでしまったのである。
星野は数歩引き返して、彼を呼んだ。彼は返事もしなかった。星野はその肩を捉えた。彼は棒のようにつっ立ったままだった。と、突然大きく笑いだした。
酔ってるんだな、と星野は思った。だが、彼は意外なことを言いだした。
「東京を思い出した……。」
「え、東京を……。」
「銀座の四辻のことですよ。」
彼はまた笑った。
星野は投げやられた気持ちだったが、やがて、それを思い出して、愉快そうに笑った。
銀座裏の四辻は、虎ノ門事件と共に秦啓源についての双璧の逸話だった。――彼は或る時、白昼、銀座裏の四辻にふと立ち止った。空に何かちかちか光るものがあった。眼のせいか、それはすぐに消えたが、彼はやはり空を仰いだまま、自分でも意識しない想念に囚えられて、ぼんやり佇んでいた。そこは人通りもあまりない場所だった。ところが、気がついてみると、まわりには、七八人の通行人が立ち止って、同じように空を仰いでいた。彼はも一度大空に瞳をこらしたが、何も見えなかった。変な気持ちで歩きだした。暫くして振り返ると、もうそこには人立ちもなかった。それが、夢ではないのだ。
その話は、人々を喜ばした。彼等は秦啓源の人柄の大陸的風貌だなどと誇張した。秦啓源の方では、東京に好奇な閑人の多いのに苦笑した。
だが、今では、秦の笑い方は異っていた。その底には、別種の真剣さが籠っていた。
歩きながら彼は言った。
「一人が立ち止って空を仰げば、数人の者が立ち止って空を仰ぐ。
そのようなことが、この上海で見られますか。東京には共通の一般心理があるが、上海には個々の心理きりありません。共通の心理には共通の言葉がありますが、個々の心理には個々の言葉きりありません。中国ではまず、共通の言葉を作りだすことです。」
星野はただ漠然と、中国の統一国家とか、東亜
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