その秦の肩を叩いて、星野は繰り返し言うのだった。
「も一度、詩に立ち戻りませんか。僕達は君の詩作を翹望している。世界の情勢は君の詩心を誘発せずにはおかない筈だが……。」
星野はさすがに、戦争のことを直接に言うのを避けた。然し、詩のことが話題に上ると、秦はすぐに言葉をそらしてしまった。
「少し腹ごしらえに出かけましょうか。」
話の最中に秦はたち上った。張を亭主の方へやって、星野を促して外に出た。宵の街路は雑踏の盛りにあった。肩々相摩する人込みは、それでも何の澱みも作らずに流れ動いていた。不思議に秩序ある混雑だった。秦はその間を巧みにすりぬけつつ、星野を競馬場の彼方へと導いていった。途中で幾度か、彼が頭や肩や手先の微細な身振りで、通りすがりの者に合図したらしいのを、星野は気付いた。そのうち、二人の青年がいつしか後に随っていた。秦は彼等に一言も口を利かなかった。
小さな回教料理店に落着いた時、星野は秦と相並びながら、張と他の二人の青年に取り囲まれた形になった。秦は彼等のことを、懇意者とだけで、何の紹介もしなかった。彼等は殆んど口を利かず、慎ましく控えていて、羊肉を盛んに煮た。酒はあまり飲まなかった。秦と星野は、羊肉よりも酒の方に気を入れた。
星野はもう可なり酔っていた。得体の知れない青年たちに取り巻かれ、真中に煙筒のつき立っている鍋を前にし、老酒の杯を重ねた。正面の欄間、血の滴るような羊肉を盛った皿が際限もなく現われてくる料理場口の上方には、阿拉《アラー》伯父の経典が額縁にいれて掲げられており、そのアラビア文字は怪しい模様を描き出していた。
嘗て東京で酔ってた時のように、星野は秦を、もうシン君と呼ばずに、日本流にハタ君と呼んでいた。
「ねえハタ君、何よりも詩だ、そして詩と酒だよ。その門から、至高な精神に通ずる。」
秦はじっと阿拉伯父の経典に眼を挙げた。
「剣の道にも通ずる……。」
「そうだ、剣の道にも……。君、詩を書き給え。」
秦は眉根に皺を寄せた。暫くしてから、ぽつりと言った。
「詩を作るより田を作れ、これも東洋精神の一つだ。」
星野はその意を汲みかねて、二つ三つ目叩きをした。
秦はだしぬけに、上海近郊の日本軍経営の農場のことを話しだした。そこには、台湾から来た本島人の青年たちや、附近の農村の娘たちが、数多く働いている。厳格な訓練と規律との中に働いてい
前へ
次へ
全11ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング