は洋酒の方でしたね。然し、老酒も少しいかがですか。」
「いや、大好きですよ。」
 当りさわりのない挨拶だけが長引いた。久しぶりに逢ったせいばかりでなく、また、張が側に控えてるからばかりでなく、つき込んだ話に持ってゆきにくい気味合いがあった。
 星野は室の中を見廻した。あちこちの卓に倚ってる客たちは、たいてい支那服の商人風な年輩者が多かったが、それがいずれも静粛で、おっとりした温顔だった。星野は妙な気がした。これまで接した中国人はたいてい、饒舌で騒々しく、表情が険しかったのだ。
「ここは、いいですね。なんだかなごやかで……。」
 秦は笑顔をした。
「ほかと違っているというのですか。」
「ええ、雰囲気が……。」
「これが本当の中国……本当の支那ですよ。あなたは諸方を見て廻られたでしょうが、上海の雑踏の中心地にこんな姿があろうとは、思われなかったでしょう。」
「然し、これが本当の中国の姿とは、どういうことでしょう。騒々しい険しい表情の中国は、それでは本物でないというのですか。現実は常に本物でしょう。」
「いえ、それは別な問題ですよ。私はあなた方の実感のことを言っているのです。中国というものはあなた方の実感の中にはなく、あるのは支那というものだけでしょう。」
「違う。」と星野は叫んだ。
 星野に言わすれば、支那というものだけを実感しているのは、日本の旧時代層であって、新時代層は中華民国というものを実感している。その実感から、中国を近代的統一国家へと護り育てようとする誠意も生れてくる。この誠意は信頼して貰わなければならないのだ。
 然し秦に言わすれば、その近代的統一国家の概念と支那という概念との間には、日本人の頭脳の中で喰い違いがある。だから、例えば日支文化の交流提携ということについても、旧支那文化と新日本文化との交流という、喰い違った面に於て考えられる弊がありはすまいか。
 然し星野に言わすれば日本には本質的な新旧間の断層はなかった。
 然し秦に言わすれば、支那にもそういう本質的な断層はない筈だが、断層があるように見える現象を心から泣いたのは、あの偉大な作家魯迅だった。
 然し星野に言わすれば、万国公墓の魯迅の墓に肖像の焼き付けを嵌め込んだ、あの俗悪さに、魯迅は一層泣くだろう。
 話はこのような筋途を辿っていったが、秦は次第に憂鬱になってゆき、随って言葉も少くなっていった。
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