秦の憂愁
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)老酒《ラオチュウ》
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(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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星野武夫が上海に来て、中国人のうちで最も逢いたいと思ったのは秦啓源であった。だが秦啓源は、謂わば上海の市中に潜居してるもののようで、その消息がよく分らなかった。
星野は中日文化協会の人に頼んだ。
協会の人は頭をかしげた。
「秦啓源氏のことは、よく分りませんが、早速取調べて、何とか連絡をつけましょう。」
それが、幾日待っても、音沙汰なかった。
星野は大陸新報の人にも頼んだ。
新報の人はちょっと考えた。
「秦啓源……名前は知っていますが、よく分りませんね。聞き合せてみましょう。」
それが、やはり、いつまでも音沙汰なかった。
それから、星野は、日本軍特務機関の嘱託になってる某氏にも、頼んでみた。
某氏は事もなげに引受けてくれた。
「秦啓源ですか、よく知っていますよ。すぐに逢うようにしてあげましょう。」
然し、それきり音沙汰がなかった。
星野はなお二三の中国人に尋ねてみたが、要領を得なかった。
つまり秦啓源は、日本側にも、また中国側にも、一部の人々にはよく知られているが、大部分には知られていなかった。その上彼は、何か故意に姿を晦ましているらしくもあった。星野は少し忌々しく思った。次には、いつとなく彼のことを忘れかけてきた。
星野は忙しかった。上海と南京とを股にかけて、各方面に日程がぎっしりつまっていた。文学を中心として文化一般に亘り、いろいろな会合や調査などに、毎日飛び廻っていた。忙忽のうちに日々は過ぎて、予定一ヶ月は終り、あと数日で日本へ帰ることになった。
ぽつぽつ、帰途の荷物を整理しながら、星野はまた、秦啓源のことを思い出すのだ。そしてもう、思い出すことは、星野の性情として、何故彼に逢いたかったかを反省してみる方へ傾むいていた。
秦啓源は以前、東京に長らくいたことがある。中国大使館付の通訳官とかいう話であったが、誰も彼が通訳などしているのを見たことはない。それより彼は、文学者仲間に詩人として知られていた。日本語の長詩も数篇発表した。茫洋とした詩
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