えはしなかったろう。
出発まで、彼は秦を探したが、探す方法の手掛りさえもなかった。或る時、南京路の人込みのなかで、あの時の青年の一人を見かけたように思ったが、先方で隠れたのか、即時に見失ってしまった。彼は四日後に、早朝、飛行機で日本へ飛ぶことになった。
彼は出発前、秦啓源への伝言を私に託した。もしも逢えたら……と私は答えた。その代り私は、張浩の死を彼に知らせた。政治的なまたは思想的なテロの犠牲ではなく、なにか商取引にからんだ事件らしいと、私は力説したが、彼はなかなか信じなかった。ただそう信ぜよと言っても無理だったろう。然し私の言葉は真実なのである。私はこの事件によって、秦啓源の生活をかなり詳しく知ることが出来た。それもやはり別な物語に属する。
私が滞在していたのはブロードウェー・マンションの十五階の一室で、目の下に街衢の屋並から、遙か、黄浦江の流れや村落が展望された。多くは大気が濁っていて、少し遠くはもう茫とかすんでいた。
或る夕暮、その窓から、私は秦啓源と二人で外を眺めていたことがある。窓外にはもう蝙蝠が飛び廻っていたが、電灯もつけず、無言のままでいた。
秦は私の方を顧みて言った。
「上海では、僕はどうも異邦人のなかにいる感じだ。君の方が、上海に落着きがいいようだね。」
「まあそうも言えるね。」と私は微笑した。
それから私は真面目に言った。
「無錫に帰るのかい。」
「そうするつもりだ。此処では、なにかと邪魔が多くて、本当の仕事が出来ない。」
「上海の憂愁だね。」
「星野君の言い草じゃないが、詩を書くといいかも知れないよ。」
「うむ、そんな気もしてきた。」
それからまた私達は無言になった。やがて、言い合したように立ち上った。老酒と無錫料理とへ赴こうというのである。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸」
1944(昭和19)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月27日作成
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