をじっと眺めた。その眼は如何にも、彼を産んでくれた母の眼だった。彼に乳房を含ましてくれた母の眼だった。
「そんなことが本当にあったらねえ。」と暫くして母は云った。そしてその言葉で、二人の心は一つに融けて、秋の高い大空のうちに吸い込まれていった。
 夕方から晩になると、田舎の村落は恐ろしいほど静まり返った。ランプの火の燃ゆる面がかすかに聞き取られた。そして彼と母とは、よく縁側で月を眺めながらも、虫の音に促さるるようにして、一人の小さい下女に戸締りをさして床に就いた。
 朝は早く起きた。それでももう朝日の光りは朝靄を通して、露の玉を葉末にきらきらと輝かしていた。遠くから、鶏の啼く声がしたり、野に出る馬の嘶く声が聞えたりした。男等は皆稲の取り入れに出かけていた。そして朝の用事をすまして後から出かける女達が、彼の家の前を通って行った。清らかな空気が野の上を渡って来て、村落の上に靉いている朝靄と替炊の煙とを吹き流した。
 父の死後、田畑は皆小作に入れていたが、それでも広い屋敷の裏の方に、彼等は野菜畑を持っていた。種々な野菜の他に里芋や薩摩芋まで作っていた。それは母と彼とのいい運動だった。朝露の乾
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