はそう言葉をかけておいて、返事もまたないで歩きだした。彼も私と並んで歩いた。暫くして、私はくり返した。何の用ですか。暫くして、彼は云いだした。あなたは富永さんと結婚なさるとかいう噂があるが、本当ですか。暫くして、私は答えた。結婚などは決してしない。電車道と平行したわりに広い静かな裏通りだった。私たちの対話は、数歩の間をおいて、独語の調子で、水中ででもあるように落付いて響いた。私は云った。私と富永さんのことが、一対君に何の関係があるんですか。数歩してから、彼は云った。結婚はなさるまいと思っていたが、もし結婚して下されば、私は助かるんだけれど……。私は立止った。彼の蒼白い整った横顔が、貝殼のように冷たく見えた。そして率直な厚かましい眼付が、たじろぎもしなかった。その眼付を受止めておいて、私はまた歩きだした。僕はもう彼女とは無関係な立場だから、そんな話はやめにしよう。そして歩いてるうちに、彼の姿はいつか消えていた。まるで夢のように浮動した而も明確な情景だった。
あなたは平野のあの行為を狂言だというけれど、私はそうは思わない。彼のような男にあっては、狂言と真実とは殆んど間一髪の差にすぎなくて
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