底本では「剌す」]のは不思議だった。そういう時私は、わざわざあなたに寄り添って歩いた。カフェーの明るい光のなかで、あなたの側で、女給に戯れてもみた。ホールの明暗の色彩のなかで、じみな凝った日本服のあなたを我物のように抱いて、ステップはいい加減に、バンドのつまらない音楽に耳を澄した。そうした私の調子外れに、あなたは好奇な楽しみを覚えたのであろう、ちらと、眼ではいぶかしげな視線を送って、あでやかに笑って見せた。
 そしてあの晩、私は妙に神経が疲れて、早めにダンスホールを出て、あなたを自動車で先に帰して、一人街路を歩いたのだった。気持のせいか街燈の光に力なく、雨でもきそうな空合らしく思われた。私はただ真直に歩いた。そのうち、誰からか後をつけられてることを感じた。その感じがますますはっきりしてきて、或る板塀の上から椎の枝葉がこんもりと差出てる下影まで来た時、立止って振向いてみた。濃茶のソフトをかぶった細そりした身体附の若者が、じっと私の方に眼をつけたまま近よってきた。あの男……あなたが私を裏切るために選んだあの男を、私はその時、平野亮二と名前で呼べる気持になっていた。
「何か用ですか。」
 私
前へ 次へ
全34ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング