笑を浮べていたろう。みよ子が銚子をもってきた時、私はその可愛い手に握手をして云った。
「僕はいつまでもみよちゃんの小父さんだよ。覚悟しておいで。芸者になっても、何になっても、しっかりしていなくちゃいけない。そうでなけりゃ、ぶんなぐってやるよ。」
 みよ子はその子供の顔に、唇の片端をきゅっとまげて、こまっちゃくれた反抗の表情をした。眼が女らしく笑って、肉の足りない※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がつんと澄している……。
 私は胸がすっきりと朗かになった。然しその朗かな中に妙に淋しさがすくった。その淋しさは後まで続き、それが私を少し高くへ引上げてくれて、私はなおあなたと連立って人中に出ることが出来た。
 私はまだあなたを愛しているような風を装った。何もかも知りながら高くからあなたをいたわってるような風を装った。だが他人から見れば、あなたに引ずられてるように見えたかも知れない。あなたは無頓着な高慢な態度を持ち続けていた。その側で私は、もしあなたと結婚したら……などと自嘲的に考えながら、ともすると暗い気持に沈むのだった。結婚、ただそれだけの考えが、針のように私の心を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]のは不思議だった。そういう時私は、わざわざあなたに寄り添って歩いた。カフェーの明るい光のなかで、あなたの側で、女給に戯れてもみた。ホールの明暗の色彩のなかで、じみな凝った日本服のあなたを我物のように抱いて、ステップはいい加減に、バンドのつまらない音楽に耳を澄した。そうした私の調子外れに、あなたは好奇な楽しみを覚えたのであろう、ちらと、眼ではいぶかしげな視線を送って、あでやかに笑って見せた。
 そしてあの晩、私は妙に神経が疲れて、早めにダンスホールを出て、あなたを自動車で先に帰して、一人街路を歩いたのだった。気持のせいか街燈の光に力なく、雨でもきそうな空合らしく思われた。私はただ真直に歩いた。そのうち、誰からか後をつけられてることを感じた。その感じがますますはっきりしてきて、或る板塀の上から椎の枝葉がこんもりと差出てる下影まで来た時、立止って振向いてみた。濃茶のソフトをかぶった細そりした身体附の若者が、じっと私の方に眼をつけたまま近よってきた。あの男……あなたが私を裏切るために選んだあの男を、私はその時、平野亮二と名前で呼べる気持になっていた。
「何か用ですか。」
 私はそう言葉をかけておいて、返事もまたないで歩きだした。彼も私と並んで歩いた。暫くして、私はくり返した。何の用ですか。暫くして、彼は云いだした。あなたは富永さんと結婚なさるとかいう噂があるが、本当ですか。暫くして、私は答えた。結婚などは決してしない。電車道と平行したわりに広い静かな裏通りだった。私たちの対話は、数歩の間をおいて、独語の調子で、水中ででもあるように落付いて響いた。私は云った。私と富永さんのことが、一対君に何の関係があるんですか。数歩してから、彼は云った。結婚はなさるまいと思っていたが、もし結婚して下されば、私は助かるんだけれど……。私は立止った。彼の蒼白い整った横顔が、貝殼のように冷たく見えた。そして率直な厚かましい眼付が、たじろぎもしなかった。その眼付を受止めておいて、私はまた歩きだした。僕はもう彼女とは無関係な立場だから、そんな話はやめにしよう。そして歩いてるうちに、彼の姿はいつか消えていた。まるで夢のように浮動した而も明確な情景だった。
 あなたは平野のあの行為を狂言だというけれど、私はそうは思わない。彼のような男にあっては、狂言と真実とは殆んど間一髪の差にすぎなくて、偶然の機会がそれを支配する。彼は私と別れて、あなたに電話をかけた。あなたは丁度家にいた。彼は服薬してあなたのところへ飛びこんだ。そしてあなたの前で昏倒した。手当が早かったので助った。それだけのことである。もしあなたが不在だったら、彼は決して服薬などはしなかったろうし、もし往来で倒れていたら、彼は死んだかも知れない。
 あなたが真先に岡部を電話で呼びよせたのは、賢明な策だった。夜遅く、迎えの自動車で私がかけつけた時には、岡部の配慮でもう万事かたずいていた。岡部と平野の兄と医者と、三人の間に事は秘密に保たれた。平野は翌日はもう回復して、三日目には病院から出た。その間あなたは、家の奥にひきこんで、人にも逢わないようにしていた。高慢なあなたの心は硬直して、一片の情味もたたえていないかのように見えた。平野の行為をでたらめな狂言だとして、癪にさわるという様子だった。その上、あなたは私にまでも攻勢をとってきた。結婚してはどうかという話があるが、聞いたかというのである。私はただ微笑して、あなたの顔に蝋細工のような美しさを認めた。
「そのことは、考えにいれないでおいて下さい。お断りしておきます。」とあ
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