なたは云った。
 そんなばかなことをわざわざ断る必要がどこにあったろう。私はただ唖然とした。そして私が知りたいのは、そういう話が一体どこから出たかということだった。あなたは苦しげな苛立った表情をした。感情が押しつぶされて、理智だけが荒立っていた。
「岡部君から出た話でしょう。」と私は云った。
 あなたは黙っていたが、私にはそれでもう凡てが分った。岡部はあなたのことを心配したのだ。結婚が最善の途だと考えたのだ。それは親切な常識からくる解決案だったろう。そしてその親切な常識が動きだしたために、私にもいろいろなことが分ってきた。
 富永郁子よ、私は今やはっきり云うことが出来る。私たちの間には少しもほんとの愛はなかった。ただあるのは、愛してると信じようとする観念上の努力と、肉体的享楽だけだった。私たちこそ狂言をやってきた。真剣なのは平野だけだったかも知れない。ああいう男との享楽には、或る粘液質な繋がりや滓を残すと私が恐れたのは、そのところを指すのである。情意と肉体とが一つになって絡んでくる。あなたがもし結婚するとすれば、平野とすべきであって、断じて私とではない。
 私は今やあなたからすっかり解放された自分の心を感ずる。その自分の心の自由を護ってゆこう。
 この意味で、私は岡部の親切な常識に感謝する。あなたもいろいろな感謝を覚えているだろう。ただ、私は感謝はするが、憎悪の念をどうすることも出来ない。そういうものの存在に対して、本能的な嫌悪を覚ゆる。この感謝と憎悪とを調和させることの出来ないのが、私の悩みである。調和させることが出来ないとすれは、私は感謝をもち続けてゆくべきであろうか、それとも憎悪に執すべきであろうか。
 富永郁子よ、せめてこれくらいのことだけは平静な心で考えていただきたい。私とあなたとに結婚の意のないことを知って、平野はなぜああいう絶望的な行為をしたのか。あなたは病院に平野をなぜ一度も見舞わなかったのか。結婚の話をわざわざ私に断ることによって、果してあなたは救われた気持になったか。これまでのことを狂言としてあなたの許から立去ることによって、果して私は満足だったか……。
 私は今や自由であるが、然し淋しい。それは私一人のことだ。私は一個のルンペン坪井宏にすぎない。無益な夢想からぬけだした野人にすぎない。

     二

 初めから、何かしらなごやかでないものがあった。それでも、どこがどうと際立ったものはなかった。みな、相当に酒がまわっていた。「みます」の二階のただ一つきりの室で、光度の少し足りない電燈の光が、静かな一座をてらしていた。餉台の上には、食いちらされた料理の皿が並んでいて、銚子の白い肌が目立っていた。岡部周吉が赤い顔をして、一人で饒舌っていた。村尾庄司が聞手になって、短い言葉を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだりうなずいたりしていた。島村陽一は黙って、時々にやにや笑いながら、頭の奥では自分一人の夢想を追ってるような様子で、なお酒をのんでいた。片隅に坪井宏はねそべって、煙草ばかりふかしていた。酔っていつまでも飲み続ける島村の酒量は、話の種もつきた折の座の白けを救う助けとなるのであったが、岡部の饒舌はそれよりもっと効果があった。彼の話はいつも尤もで、随って平凡で退屈だったが、飲み疲れたり語り疲れたりした場合には、そんなのが穏当なつなぎとなるものである。だがその晩、彼の平凡な退屈な饒舌には何かしら神経的なものがあって、沈黙を恐れてるもののようだった。初め島村と村尾と坪井とが飲んでいて、そこへ後から彼はやって来、つかまって仲間にはいったという事情もあるし、三人とは気合がしっくりいかないという点もあったが、そんなことよりも、時としては太々しいという感じを与えるほど落付いてる彼の態度に、うわついたところがあった。そこへ、電話だった……。
 その時彼は少女の心理というようなことを論じていた。みよ子が銚子をもってやって来たのを、じっと見やって、だんだん綺麗に女らしくなるじゃないかと、それも坪井に対する皮肉やあてつけではなく、まじめな調子で云いだしたのがきっかけで、昔、女学校の教師をしていた時のことを話していた。その頃彼はまだ独身だったが、独身の若い教師というものは、女学校では、その一挙手一投足が生徒たちの注目の的となる。それはまだ恋愛と名のつくものではないが、若い男性は一種の光で、少女たちは花で、太陽の光の方へ花はおのずから顔をむける。花弁の一つ一つが出来るだけ多くの光を吸収しようとする。期待と競争とが起る。だから若い教師は、教室でも運動場でも、空高く超然と照ってる太陽でいなければならない。もし誰か一人にだけ眼を留め顔をむけると、他の全部に嫉みと反感とが起る。それで彼は教室の中で、いつ
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